Habby中野

雑魚どもよ、大志を抱け!のHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

雑魚どもよ、大志を抱け!(2023年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

何かがおかしい。あれはきっと、ノスタルジーなんかじゃない。
1988年、日本のどこかの片田舎、儀式のように輪を作って縦笛を吹く女児たち。その後なぜか走り出す一人の後を追う。気がつけば成績について強く叱られる彼女の兄と叱る母のちゃぶ台に、しばらく後には自転車に乗る彼と友人との隣を並走していた。時折画面にノイズが走り─意図的なのか、映写ミスか、撮影データの破損なのかもわからない─そんな内に”世界観”を理解していく。それから時に傍観者として、時に池の中の生物として、まるで彼らの仲間として観客は着座していた。なんだかこの浮遊感、これはあれだ、まるで異世界転生ものの主人公の目線じゃないか。
そしてこの異世界性は、恐ろしくも”排除”によって支えられている。リアルな昭和感、を醸す緻密な小道具や台詞演出と、意外にもほぼ全編ロケーション撮影されたこの画面にあるのは、あるはずのものを徹底的に排除した偽-ノスタルジーだ。カメラが止まっている時、素顔の少年たちはスマホをいじり、昭和の片田舎にも新型の車が走り、きっと少しはWi-Fiも飛んでいる。それらはしかしこの画面内の”世界”において見えないように排除されている。だが、本当に恐ろしいのはこの映画が持つ排他的性格が、芝居がかったノスタルジーに止まらない、自己崩壊みを帯びていることだ。
そもそも女性が母性と母親性にのみ引き取られ、さらには少年たちの後景に小道具のように配置される市井の大人たち、いじめっ子の悪どさ、その友人の存在、そういった意図的に配置されておきながらと映画上の必要と不必要の狭間を揺れるものが、時間が経つにつれ徐々に、まるでガン細胞を取り除くかのように慎重に排除され、また傷口はきつく結ばれていく。ここには排除の過程さえも露呈している。あるいは物語は、少年たちが自らの弱さを認め、それを乗り越え排除していく様を主題とする。純粋な悪意や人生の狂い、欺瞞や少年期の粘度と湿度を持った嫌な思い出─そして時間の進度さえも─まるでなかったかのように取り繕われる。そして何よりも分裂的に、この映画は差別について自弁している。それを気づけばまるで当事者の一人として目の当たりにしていることに、痛みが伴った。
異世界転生と排除の欺瞞と、自認。一方その上で、時に純粋で生な演技を感じて、あるいは排除され得なかった実在の川の煌めきを目にして、身震いしたりもする。一体ここはどこで、何を見ているのだろうか?異世界転生と排除の欺瞞と、自認。われわれは一体どこで、いつ、何を見て、何を見ていなかったのだろうか。場所、時間、次元。箱に収められた世界がいくつもあるとして、その境目は本当にあるのだろうか。われわれが畏怖し、いつも境だと思っていたトンネルは、走り出した時すでにくぐり抜けていた。向こうも、こちらもない。異世界というのは、現代が産んだ、現代から現代性を除いた何かだ。
時間が来て、われわれは友人の輪から外される。排除。あるいは解除、介助。血塗れた小道具の鈍刀、演者が川に放り込んだ釣竿。
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