ナン・ゴールディンについては、今から18年前、東京都現代美術館で行われた「カルティエ現代美術財団コレクション展」で「性的依存のバラード」を観て以来、ファンになった。
映し出されるものはドラァグクイーンやゲイの人ばかりで、ものすごく生活感に溢れているのに光と影や色が妙に綺麗だった。写真が移り変わるのに併せて流れる音楽もロックもオペラも含めて色々あり、小6の自分にとってはものすごく異質な体験だったことを覚えている。
しかし、写真の被写体となった人たちがどんな人なのかは、よくわからなかった。知り合いなのか、モデルなのか、たまたまその場にいた人なのか。有名なナン・ゴールディン自身が殴られて目を真っ赤にしている自写像も、メイクを施した演出だと思っていて、なぜそこまでして痛みを表現するのかわからなかった。
そうした謎が、ようやくこの映画を観ることで18年越しに明らかになった。映し出された人々の殆どがエイズによって今はこの世にいないこと、あの自写像はメイクによる演出などではなく依存関係にあった恋人によって本当に殴られた末のモノだったこと、そして、彼女自身が辿ったあらゆる体験と現在繰り広げている闘争。
この映画が語りかけること、訴えかけることは何だろうか。愛と受容の大切さ?隠すという行為の残酷さ?すべてを曝け出すということ?あるいは、アメリカの資本主義社会がもたらす悲劇?
......などと文章に書くこと自体が間違っているのかもしれない。この映画自体もそうだが、ナン・ゴールディンの写真を見ないことには、何にも伝わらないのだ。上映中、5回くらい声もなく泣いてしまった。