YasujiOshiba

アテナのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

アテナ(2022年製作の映画)
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ネトフリ。たしかに最初の10分がすごい。ぼくは『サウルの息子』を思い出したけれど、見るべきはテクニックじゃなくて、ここにフランス映画の新ジャンルのひとつの到達点があるってことじゃないだろうか。

 誰かが「バンリュー映画」と呼んでいた。そんなジャンルのひとつの傑作をものにした監督が、ロマン・ガブラス(1981 -)。名前が似ていると思ったら、あのコスタ・ガブラス(1933 - ) の息子だという。

 このギリシャからフランスに帰化した名匠の息子は、すでに2008年、フランスのバンド Justice のビデオクリップ『Stress』を監督し、バンリュー地区の若者の暴れっぷりを映像化して話題になっている。それがこれ。たしかに似ている。なるほどこのあたりが出発点なわけだ。

https://www.youtube.com/watch?v=QWaWsgBbFsA

 このクリップ、パリのバンリュー(郊外)の住人を悪魔化していると批判されてもいる。けれど若者たちの「ストレス」の暴力的な発散は、小説や映画にとって、ひとつの表現スタイルになっている。

 S.キューブリック/A.バージェスの『時計仕掛けのオレンジ』を思い出せばよい。若者の暴力とは、悪魔的であれなんであれ、陳腐な言葉でいえば「若気のいたり」。大人になると過ぎ去るもの。

 だとすれば、それは社会的な存在とそれ以前の存在の狭間にあるもの。バージェスの小説にあった21章もまた、そんなふうに暴力を捉え返そうとする。

 しかしキューブリックは違う。そんな「若気のいたり」の章には見向きもせず、ひたすら暴力を見つめ、人間のなかにあるなにか根本的な衝動として描き出そうとする。暴力は偏在し、過ぎ去っても到来し、消し去っても回帰してくる。

 ロマン・ガブラスのこの「バンリュー映画」もまた同じ。ラストシーンでネオナチがフェイクのポリスの衣装を焼くところは、なにか悪魔的な儀式のイメージとして脳裏に刻印されることになる。

 この儀式が召喚する憎悪の連鎖こそは、あらゆる普遍宗教が断ち切ろうとしてきたもの。同時、あらゆる宗教に裏口から忍び入る悪魔的なものでもある。

 ときにポピュリズムと呼ばれ、ファシズムと名乗り、ネオナチとして姿を表す。だが実態はひとつ。復讐と正義と英雄という呪文を巧みに操り、暴力を正当化し、ぼくらの血をすするモンスター...

 キューブリックはもちろん、父のガブラスも、子のガブラスも、映画という産業エンターテイメントのなかで、このモンスターをスペクタクル化しようとしてきた。もちろんそれで問題が解決されるわけがない。それでも問題のありかが可視化される。心穏やかにはさせてもらえない。それでもぼくらは、もはや何も知らずに安穏と暮らす愚かしさからは、ほんの少し救われる。少なくとも救われた気になれる。

 そのほんの少しが大切なのだ。ぼくはそう思う。少しだけ知ってしまった。少しだけ胸が痛んだ。こんなことがあるのか。なんだか後味が悪い…

それでいい。それがスペクタクル化されたモンスターなのだから。本物は劇場の外にいる。ラストシーンまで見終えたら、世界は少しだけ変わっている。それが始まりなのだ。

追記:
この記事を参照のこと。https://ja.wikipedia.org/wiki/バンリュー

イタリアでも似たような現象がある。ローマの郊外については、ボルガータとよばれパゾリーニが『生命ある若者』などの舞台にしたところ。ミラノになるとジョヴァンニ・テストーリの『Il ponte della Ghisolfa』(ギソルファ橋)などがあり、この両方の作品の影響を受けながらヴィスコンティが映画化したのが『若者のすべて』(1960)だ。
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