このレビューはネタバレを含みます
よかったところ、あれはどういう意味だったの?とかを箇条書きでざっくり順不同で書きます。
名前は以下のように省略してます。
息子 サミー・フェイブルマン
ママ ミッツィ・フェイブルマン
パパ バート・フェイブルマン
5人席を使わなくなって、ママとはアイランドキッチンで食べて話すようになった
モニカに振られちゃった、と卒業式終わりにママと話す息子。焦げても食べれるよと言う。
そもそも料理しなくなってたのにするようになったのはベニーと関係がもてるようになったからでしょうか。ベニーがいないときは料理ができていませんでした。料理=愛情と考えれば(料理を作って食べてもらうことで、愛情が子供に伝わるという説がある)恐らくべニーがいなければ愛情を持って接することができないということでしょう。だからこそイライラして息子にぶったりとかできた訳ですね。
一緒に映画をみない
はい、ここ一番好きなシーンです
めちゃくちゃ泣きました
母の不倫を知ってしまった息子は、それを口で伝えるのではなく、ムービーで伝えます。
幼き日にママと一緒に、初めての作品の喜びを共有した、あの同じ物置で。
そして手を差し出す息子。
見ているものははっとします。
2人でまた一緒に、ここで見るんだなと感じます。
しかし物置の扉は閉められママはちょっと驚いたような、目を見開いた表情をします。ママも一緒にみると思ったのではないでしょうか。
そして現実が映されるわけです。ママがいなければ、映像を撮ろうという気持ちにならなかった。
作品を作る喜びを教えてくれた、手伝ってくれたママをその作品でもって傷つけてしまう。
もう今まで通りではいられないのかもしれない、、、。
そんな感情が沸き起こってきました。
窓越しのママ
カルフォルニアに引っ越してきて、新居ができる。そしてその新居で暮らしを始める時の様子は、映画としてのストーリーではなく息子の映像作品として切り取られる。この時ママは蚊帳の外である。なぜなら映像ではしきりに窓越しにママが映されるからだ。
心の中はまだアリゾナにいたいというママの気持ちが強く表れているのがわかる。
目は笑ってないママ
同じ場面でパパは無理やりママを、新居の中に入れて、お姫様抱っこをする。それはまるでベニーから引き離し、アリゾナからカルフォルニアに無理やり引っ越させたように、、、。
その時のママは口角を上げるが、心から喜んでいるようには見えない。一方パパはベニーという邪魔者から離れられたという気持ちもあってか、心から笑っているように見える。これは分かれるのかもなと思ってしまう。
映画を作らないといけないと自覚した瞬間
そんな予想通りにいきなり離婚することになるすべてを告白したママと泣き叫ぶ妹。
視聴者はあぁやっぱりね、と思うわけです。
そんな中、息子は鏡越しにこうおもっているわけです。
この場面を映像にしたら最高なんじゃないか。
そして、自分は映像を作らないといけない人間なのだと自覚する。
悲しむべきだ、混乱するべきだ、戸惑うべきだ。
そんなことはわかっているが自分は映像を作ることしか考えられないんだ。
そして、部屋にこもり、卒業式の作品を作ります。だからこそ、邪魔しに来た妹に「お前とは違う」というわけですね。
皿洗いはしない
画期的。真似したくなりました。
ピアノを爪でカチカチ。
タイプライターのモノマネ上手くて笑いました。なんだか、演じているような、ふざけているようなシーンが多いと感じました。これも映画をつくる上で礎になっているのかも…?
E・T っぽい?
窓の光で手をかざすシーンもあったような?
スピルバーグ作品自体詳しくないので、パロディとかわからないのですが、それっぽいのはあったような……。詳しい人教えてください。
クリスマスの装飾が欲しい!
カルフォルニアに来てから嫌なことばかり。全部パパのせいだ!と口喧嘩するシーン。この辺でユダヤは自分たちだけだ!(だからいじめられるんだ!)と言っていました。しかし、思い返すと映画の冒頭、クリスマスの装飾のない真っ暗な家に帰ります。周りはキラキラだったのに。恐らく、最初に住んでいたところもユダヤは彼らだけ、だったんじゃないかと思う。
大きくなって、そういう思春期のせいで自分はイジメを受けただけ。要はパパへの八つ当たり。
映画で戦争をしていた時の演技指導で言ってることと、パパにいってることは繋がっているというね。君のせいだ!ってやつね。
可哀想なパパ…
パパすごい優秀なのにそれに寄り添うように映画が作られないのはあくまでも「ママより」だからかもしれない。今では大成功している映画監督に、昔から理解をしてくれたママを悪く描けないのでしょう。パパは柔軟性がなく、優しくて頭がいいだけ、みたいに表現されます。そういう切り口の作品と思いました。
パパと目を合わせないママはあからさま過ぎて悲しくなった。
話が進むにつれて、あからさまにパパよりベニーに好意がある行動をとるようになる。
もしかしたら昔からそうだったのかもしれないが、それを子どもの時は認識できなかっただけなのかもしれないと思った。
キャンプに行きママがスケスケドレスで踊りだす前にパパにキスしたシーン
その後なぜかパパは悲しそうにうつむいたのがなぜだか印象的だった。
そのキスする前、ママは何かを飲んでいた。
ウィスキーをあおっていたのだ。
ちなみにウィスキーを飲む前は寝ていた。
酔い潰れていたんだろうと思われる。
どうして、こんなことがやかるかというと、寝ていた枕元にウィスキーボトルが置いてあったからである。
酔って寝ていたが、起きて残っていたウィスキーをあおってパパにキス。
そしてパパはうなだれる。
こういうシーンである。
パパはシラフでキスをしてくれないのが悲しかったんじゃないかなと想像した。また酒のにおいか…ってね。その前には仲良くベニーとキスしているのにね。
そういうのが全部わかっていながらも優しくできるパパをママは「こんないい人いない」と言い聞かせていました。
分析医に行ってきた!と息子とパパのケンカを止めるためおちゃらけたりしました。
彼女なりに努力しているのがまた悲しくなります。
全然違う二人だったから惹かれ、全然違う二人だったから離れる。
往々にしてそういうものなのかもしれません。
息子が付き合った彼女も少し破天荒で、ママっぽい感じを受けました。血は争えませんね。
エンジニア脳だな
フィルムに穴を空けて、銃撃を表現したときのパパのセリフです。もちろん褒めています。
このセリフからパパは息子に「自分みたいになってほしかった」だけなんだとわかります。他にも色々なところからわかります。押し付けたり、夢を壊したりしたかったのではないのでしょう。
杓子定規に押し付けますが、最後は自分が間違っていたことを認めて大学を辞めさせます。
柔軟性がなかったからではなく、自分と同じように息子にも成功してほしかった。よくある親心なのだとわかります。
しかし、これがわかりづらい。パパは頭でっかちだったんじゃないかという印象を抱かせます。こういうところから、やはり、ママ側の映画なのだな~と感じます。
どうして卒業式のあとローガンはつかみかってきたの?
この疑問は、彼の話していることに注目すれば分かります
ムービーの中には完璧な自分がいた
俺は足が速いのだって練習をしたからだ
あんなのは俺じゃない
みんなの前でキスしたんだぞ
いじめた仕返しか(日本語訳、当てつけ、だったかもしれません。うろ覚えです)
かっこいい自分を見せられたのだから、それでいいじゃないかと思ってしまう場面です。しかし実は彼にも悩みがあったということが分かります。悩みというよりはコンプレックスといった方がいいでしょうか。
例えば徒競走であればもっと速く走れる、彼よりも優秀な選手がいるのかもしれません。バレーに関しても彼よりも上手な人がいるのかもしれません。
彼が目指しているのは、そういうところなのです。しかし、まだそこには到達できないと彼も薄々感じているのでしょう。だからこそ、何でもできてしまうように見えている映像の中の自分がコンプレックスを刺激した。だから彼はつかみ掛かったのだと思います。
カメラは現実を写すだけだと諭されますが、彼は引き下がりません。
しかしスネ夫が怒り狂って殴ろうとしてきますがそいつを殴り返したことで冷静になります。スネ夫はヤバい奴で、ムービーでもそのままだった。確かにカメラは現実を映しているだけなのかもしれないと思えた訳です。
そして仲直り。
めでたしめでたし。
最後のオチ
あれは笑ってしまった。まさかのメタ的なジョークでした。