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PERFECT DAYSのnoteのネタバレレビュー・内容・結末

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

東京スカイツリーが近い古びたアパートで独り暮らしをする寡黙な清掃作業員・平山は、同じような毎日を送っている。毎朝薄暗いうちに起き、ワゴン車を運転して仕事場へ向かう。渋谷区内の公衆トイレを次々と回り、隅々まで手際よく磨き上げてゆく…。

私欲を捨てて、行いが正しいために、貧しく生活が質素であること…と辞書には書いてあるが、まさに「清貧」と言う言葉が似合う作品。
主人公の暮らしは清く、貧しく、美しく、そして正しい。
だからこそ、日常に潜む我々現代の日本人が見逃しがちな細やかな幸せを主人公と共に感じることができる人間ドラマの傑作である。
古くから日本人が大切にする感性を、日本人ではなく、ドイツ人であるヴィム・ヴェンダース監督が撮るとは恐れ入った。

かつてのロードムービーの名匠、ヴェンダース監督にとっても久々に会心の出来だろう。
東京という街と日本人への有り余る愛が感じられる。
ありふれた通勤という移動を小旅行と捉えたロードムービーの傑作でもある。

明け方にご近所の箒を履く音で目覚め、布団を上げる。
家族の姿はなく、アパートの部屋の中にはTVもパソコンもスマホもない。
台所で顔を洗い、髭を整える。
読みかけの本を片付け、鉢植えに水をやり、車の鍵とカメラを持って部屋を出る。
冒頭のミニマムでルーティンな平山の暮らしが見える朝の身支度が、まるで昭和の時代の暮らしを思わせる。
しかし、見上げると空にはスカイツリーが聳え立つ。

時は紛れもなく令和の現代だ。
車を走らせると大谷翔平の看板が見える。
だが、平山が通勤で車内にかける音楽は恐らく彼が青春時代に惚れ込んだ曲であろう60年代の「朝日のあたる家」。
しかも今どきカセットテープである。

トイレ清掃の仕事ぶりは、とても真面目だ。
表面的な汚れだけを拭き取るのではなく、鏡を使って裏側の汚れまでチェックする。
その鏡といった道具や洗剤を入れた無印の容器、車内の整頓された用具棚は明らかに支給品ではなく、平山の手作りで仕事への情熱と誇りが見て取れる。
清掃中に誰かが利用するならば、嫌な顔一つせず、「どうぞ」とも言わず、トイレを出て木々の木洩れ日を見つめて待つ。

わずかな時間だが、平山の暮らしはモノに溢れて便利さを追求する現代人とはかけ離れており、疑問を呼ぶ。

なぜ、初老にも関わらず、一人孤独に暮らしているのか?
家族はいるのか?
なぜ、世間の情報を遮断し、文明の便利さを拒否したような生活をするのか?
規則正しく、古い物を大切にしている様子は、彼のルーティンな生活が長いことを物語り、人との会話すら避けているような素振りに、一体過去に何かあったのか?…と見る者の想像力を掻き立てられずにはいられない。

そんな孤独な平山のルーティンを破るノイズのような登場人物が、旅での出会いの刺激と同じように平山を通り過ぎてゆく。

一緒に働く若い清掃員タカシは「どうせすぐ汚れるのだから」と作業は適当にこなし、通っている水商売の店の女アヤと恋仲になるには「店に通う金がない」とぼやいてばかりいる。
平山は意に介さず、ただ黙々と自分の持ち場を磨き上げる。

しかし、バイクが壊れたタカシは「車を貸してくれ」と頼み、金がないから平山が大切にしている「カセットテープを金に換えて借してくれ」と懇願する。
アヤは平山のカセットテープを黙って借りていく。(盗んでいく)
ときおり平山と目を合わせる不思議なホームレスの老人以外、自分から平山に関わろうとする者は、彼の静かな生活を脅かす者ばかりだ。

それでも、平山は日々の楽しみを数多く持っているため、少々のことではめげない。
例えば車で聴く古いカセットテープ。
どれも昔のロックやソウルの渋い名曲ばかりで趣味が良い。
昼食時は神社の境内の隅に座って境内の樹々を見上げる。その木洩れ日をフィルムカメラを取り出してモノクロ写真を撮りためている。
洒落た音楽の趣味といい、フィルムカメラといい、舞踏を舞うかのようなホームレスを気にするところといい、過去に平山はアートに携わっていたのではないか?、夢を追い続け、または夢破れ、そのまま今の生活に落ち着いたのではないか?と想像してしまう。

仕事の後は近くの銭湯でサッパリした後、浅草駅地下の食堂で晩酌をする。
休日には、古本屋で本を買い込み、現像した写真を受け取り、行きつけの小さな居酒屋で美しい女将の歌に癒される。

余計な干渉をされぬ居心地の良い場所があるとは有り難い。
色んな人がいる、話さないなら何か訳があるのだと割り切った関係が保てるのは、大都会ならではの光景だ。

家に帰ると、四畳半の部屋で眠くなるまで本を読み、眠りに落ちた平山の脳裏には、その日の映像の断片が揺らめく。
何でもかんでも写真や動画を撮り、駆け足で日々を消費する現代人へのアンチテーゼか?
今日も良い日だったと五感で記憶を反芻し、自分の人生を肯定しているかのようだ。

中盤、そんな自分の殻に閉じこもったような平山の毎日に、ある日突然、姪のニコがアパートへ押しかけ、平山は過去と向き合うこととなる。
ニコは何年も会っていない平山の妹の娘で、母と喧嘩して家出してきたという。
平山の妹は住む世界が違うからと会うことを禁止いるらしい。
ニコは平山の仕事場へついて行き、公衆トイレを丹念に清掃してゆく平山の姿に暖かみを感じるのだが、やがて平山の妹がニコを連れ戻しにやってくる。
運転手付きの高級車から降りた身なりの良い平山の妹は、高齢の父親に会えないかと問いかける。
なるほど浮世離れした平山の暮らしは実は良家の出身であった下地のためだと分かる。
父親から勘当されたのか?平山自身が縁を切ったのか?
実直な平山の性格からして生き馬の目を抜くような競争社会に嫌気がさしたのだろうと個人的には想像する。
自分が捨てた生き方を生きる妹に全く罪は無く、どんな言葉も既に時遅く虚しい。
平山は抱きしめるしか別れた妹への愛情を表現できないのが哀しい。

終盤に平山は未来と向き合う。
行きつけの居酒屋に開店前に着いた平山は、女将が男に抱きつく姿を目撃する。
直後に普段は飲まぬ量の酒と止めていたであろうタバコを買い込み、河原で一気に酒を煽る平山。
密かに女将に惚れていたのは明白な傷心のヤケ酒。
そこに男がやって来て、自分は女将の元夫でガンに侵され余命幾許もないと告白する。
平山の気持ちを知ってか知らずか、女将を頼むと平山に話す男。
珍しく饒舌になる平山に、恋という生きる「希望」が見える。

ラストシーンは、役所広司の顔だけの芝居が圧巻だ。
普段通りに夜明け前に起床して、通勤の車に乗り込む平山。
この日の選曲はニーナ・シモンの「Feeling Good」。
「新しい夜明けが来て、新しい一日が始まる、私は私の人生を生きる。最高の気分だわ」という歌詞が流れると同時に、平山の眼からジワっと涙が溢れてくる。

歌詞と同様に「私は自分が望んだ人生を生きている」と自分の選んだ人生を肯定する感情が彼を微笑ませるのだが、すぐさま「もしも違う選択をして別の人生があったなら…」という後悔の念が胸をえぐり、涙が押し寄せる。
長い人生を歩んだからこそ、ふと思い出す深く深く突き刺さっている棘のような悔い。
そして彼の現在の人生と既に捨てた生き方には、もう戻れない深い谷間がある。
そんな感情の谷間を一瞬一瞬で行き来するのが分かる表情の変化。
最後、涙を浮かべながらも真っ直ぐに前を見つめて微笑む平山は、きっとこれからも自分の生き方を続けていくのだろう。
他人との関わりがノイズではなく、心地よい音楽に変わる日まで。

1人の孤独な男の人生を、現在、過去、そして未来と端的に描いた脚本は、想像力を掻き立てて秀逸。
傷ついた人生を送って来たのだと、見る者は主人公・平山の生き方と自分を重ねて共感し、応援したくなるだろう。
残される考察と共感が大きな余韻を残す。

「毎日が新しい」と細やかな発見に瑞々しさを保ちながら、慎ましくも微笑ましい日々の主人公の暮らしぶりは、ヴェンダース監督の敬愛する小津安二郎のような円熟した味わいを醸し出している。
主人公だけでなく、彼の通勤という旅と出会いの人情が、冷たい大都会であるはずの東京という街をも魅力的に見せている。
外国人が日本を描いた映画では最高傑作の一つだろう。

映画館で泣いたのは久しぶりだ。
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