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落下の解剖学のしののレビュー・感想・評価

落下の解剖学(2023年製作の映画)
3.3
あえて事実ベースの議論ができない法廷劇にすることで、検事や弁護士という「読者」が被告人の人生を「作品」に見立てた物語解釈バトルを行うというコンセプトは面白い。こういう人の複雑さを提示する作品は好みなのだが、本作はそこを単純な台詞で説明する場面も多く、琴線には触れず。

逆に予告編のミスリードは良かったかもしれない。あからさまにミステリーの舞台っぽい雪山の山荘で事件が発生し、序盤こそ現場検証やシミュレーションによる議論があるのだが、やがて夫婦関係の破滅(=落下)についての検証がメインになっていく。原題が秀逸なので邦題はグッジョブ。

言うまでもなく、この「他者の人生を作品的に解釈する」法廷劇が、劇中で触れられる「作家が事実をもとに創作をするとき、どこまでが“本当”なのか?」というテーマと入れ子構造になっている。検事がその場で書籍を取り出して解釈合戦をやり出したのは身も蓋もなくて笑いそうになった。

その入れ子構造を自覚させる演出が随所にある。たとえば、裁判長が一度捌けて再度入廷するシーンなど、明らかに手持ちカメラで追っているような動きをする。あるいはラスト、報道陣のカメラなのかこの映画のカメラなのかが分からなくなる瞬間がある。「観客」の視点を意識させてくるのだ。自分はとくに、録音の音声が流れた後にパッと傍聴席の人々の「マジかよ……」みたいな顔が映るシーンにドキッとした。うわ今、映画館の観客席に座っている自分を映された! と。有罪か無罪かをジャッジする場所とは、他者の人生を物語化してそのジャッジに落とし込む場所でもあるのだ。

その物語化が、逆説的に他者の人生の「物語にならなさ」を主張するのである。ただ正直、この主張すらも、たとえば妻の「それは全体の一部です」といった分かりやすい討論の中で主張されるだけなので、まあそうだよねと理屈で納得するに留まってしまい、あまり実感を伴って響いてこない。

そんな中で、同じく傍聴席の観客でありつつ、しかし唯一の当事者である息子だけは、その場限りの「有罪か無罪か」のジャッジではなく、彼が「その後も背負っていける真実」を選びとる、という構成は良い。彼の証言で裁判が決着したかのような簡単な見せ方が、本作の要点を示している。思えば本作は回想シーンの取り扱いを徹底していて、客観的にあの「落下」の理由を裏付けるものを何一つ提示しない。録音の映像化も、後半の誰が誰を殴ったみたいな(音声からでは事象を断定できない)くだりは映像にならないし、ダニエルの証言による映像も、リップシンクが完璧なアフレコになっていることから、明らかに彼の主観であると演出している。だからこそ、本作の要点は有罪か無罪かのジャッジ自体ではなく、その過程で息子が「他者の分からなさ」に触れ、それを背負っていく覚悟をしたということなのだ。ベッドで母親に慰められていた彼は、ラストでは彼女を慰める立場にいる。分からない他者と、一緒にいることを選んだのだ。

しかしこれをラストシーンに選ばないのが本作らしい。つまり、「母親と息子が再起する美談」という物語化すら避けるのだ。ラスト、母親の元に寄り添うそれは、一番無垢に人に寄り添えていた存在なのか、あるいは共犯だったのか。直前の息子の証言から、今はいない父親にも見えてくる。いずれにせよ、夫婦が破滅した後にも残る何かはあったはずなのだ。それが何かはわからないけど……ということだと受け取った。

斯様に、人の複雑さを提示する作品ではあったのだが、やはり「自殺だとつまらないんです」とか「真実を決めるしかない」とか、こういう話です、ということを直截に明言する作りなので、テーマに反して単純に感じてしまった。たとえば、物語化の危険性でいえば『最後の決闘裁判』などはより印象的だったし、残された者が分からなさに向き合い折り合いをつけていくしかないという部分は『対峙』、「なぜそんなことをしたのか」って起承転結で語れるのか? という警鐘は『リアリティ』、関係性の破綻とその分からなさは『イニシェリン島の精霊』、他者が他者である豊かさは『ケイコ/目を澄ませて』等、同じ要素を持っていてかつ自分がより好きな関連作がポンポン浮かぶ。個人的に好きなテーマを扱っているだけに、シビアな目で見てしまった。

もちろん、あえてミステリーや法廷劇の建て付けでこれをやるという新規性はあったものの、分からないものを描く際に、それを分かりやすい主張や理屈で示すより、そのまま分からないと描くことに豊かさのある作品の方が自分は好みだなと再認識した。

※感想ラジオ
『落下の解剖学』は謎解き要素なし!この映画の真意とは何だったのか【ネタバレ感想】 https://youtu.be/cxyA2TzzDE4?si=vf2fkxfVTqThSTjV
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