Habby中野

落下の解剖学のHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

落下の解剖学(2023年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

一目見てすべてが分かるようなもの。そんなものが眼の前にあるならば、「学問」も「解剖」も必要ないだろう。誤訳とズレ。それが謎の正体だ。「裁く」と「捌く」が日本語で同音なのも。
見えていることは、見えていないことの裏返しだ。その究極的象徴がカメラ。カメラは世界を一次的に見、それはさまざまな意味が付与され、モニタを通じ、多くの人々の目に映り、その脳内にそれぞれの経験を生み出す。どう考えても、そこに真実はない。それを悟ったように、この映画のカメラはたくさんの何かを放棄している、と初めに思ったのは犬のスヌープについていく序盤の事件直後のドリーカット。そこから、ついに最後まで、カメラには秩序がない。神の目線でも、映画の目線でもない。死者の目線でもない。必然のような顔をして何かを写しても、次の瞬間にはまた別の意思のようなものを持っている。モニタを通じたテレビカメラに取り憑くこともあれば、裁判中には、まるでそのままカメラマンの機材操作の身体性を感じさせるほどの戸惑いまで見せる。このありとあらゆる形を取ったカメラの軸の無さは、真実ではなく、「ある一点から見た世界の断片」という情報のあり方を体現している─あるいはしてしまっている。我々は傍聴人、ないし裁判員としてそこにいる。
あらゆる断片から、客観性を抽出し、それを主観的に判断する。被告は、検察は、弁護人は、証言者は、証拠品は、主観を排しきれないまま語りを口にする。それをもとにそれぞれの中で作り上げれた「事件の形」を捌き、解剖し、それを練り上げる。
どこに「真実」はあるのだろうか?
決して理解しきれない他者を前に、何を語ることが守ることになり、責めることになるのか。裁くとは、誰が何のためにする行為なのだろうか。それは生きるためなのか。それとも、ただ純粋に真実へと向かう意思だとでも……。

”天秤は重い方が下がる。少しでも重い方へ傾く。
どんなに重いものでも、それより少しだけ重いもののために、犠牲にしなくてはならない。生きていくためには、そのジャッジから逃れるわけにはいかない。
本当に……、そうだろうか?”
──『詩的私的ジャック』(森博嗣)
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