Habby中野

瞳をとじてのHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

瞳をとじて(2023年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

なぜ初めに、失踪者と捜索者、二人のかつての親密さを描こうとするのではなく、カメラに映る演者と映らない製作者の位置付けで縛り、その関係を開かないまま映画のシーンとして我々を引き摺り込んだのか。それはひとえに、失踪者を捜索するのでも、かつての絆を取り戻すのでもなく、その構図そのものが引き起こすミステリー、と言うよりもカルマのようなものが物語を象っているからだ。
演者が失踪者で、監督が捜索者。だが雰囲気は(後に分かることだが結果も)、捜索という行為や彼らの置かれた状況の緊迫性にはそぐわないようか、ゆるやかなものだ。「親友」だと捜索者には語られる両者の関係も、説得力に欠け(失踪者には後にある意味否定さえされるほどだ)、そこにはカメラに捉えられる演者─カメラを向ける監督、の構図が、いつまでも保持されている。それは否が応でも、眼前のスクリーンと我々の関係にもパラフレーズされる。かつてこの肌に触れ得た世界の感触は、しかし一つの境を隔ててもう感じることはできない、のだろうか。
失踪者を探す─事件の真相を探る、ミステリーにはあるまじき、伸びた時間。それがこの映画がもたらす感触だ。スクリーンを前にふと感じた涼しさ、波の飛沫、歌の響き、ペンキ塗りのあのわざとらしいカットでさえも、まるでその世界の空間に、映画が呑まれているような感じさえあった。そして呑まれた映画は、そのまま溶け出してここに流れ来る。捜索者が親友だと嘯く失踪者の、画面外の姿を探る物語は、自身への探究へと自然に接続していく。我々はその姿を見つめる。画面内の雨粒の激しさを、波の飛沫を、夜更けの生暖かい空気を、我々も感じる。感じた自分の身体性がそれをまた反射する。これが”ドライヤー以後”が目指すべきものだったのかもしれない、というのは分からないから置いておく。
最後まで監督という役に執われ、あるいはそれを自ら縛りつけた彼は、鑑賞者を意図的に配置し、未完成のフィルムを上映する。記憶喪失の失踪者が自らの演じる姿を画面内に見る。その姿を、彼は見つめる。記憶のない失踪者の過去の姿が、画面内で演じる─それは奇しくも、いや、あまりにも”意図的に”、失踪者を探す物語だ─それを見つめる失踪者を、”製作者”は見つめる。失踪者の目には、かつて触れ得たがもう知るものではない世界が映り、意識と無意識の間を癇癪のように動き回る。捜索者は彼を見つめる。ついに、失踪者は、目をとじる。
彼は画面内の世界を感じたのだろうか。それとも、自分の中の、失ったかつての世界に触れたのだろうか。どちらにせよそれは、スクリーンではなくて、とじた瞳の中にある。夢の中で、失踪者と捜索者は同義となる。『列車の到着』を観た人々は、帰り道に何を思ったのだろう。世界を綴じた映画は、世界に向かって開かれていて、人の存在は、その外側にある。
Habby中野

Habby中野