乙郎さん

悪は存在しないの乙郎さんのネタバレレビュー・内容・結末

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

 日本の映画監督・濱口竜介監督の2024年作品。
 映画の感想というのは、物語の後から見た立場から最初まで振り返って、最初から知っていたという風に語れるものだけれども、今回は、観ていた時の自分の心の動きになるべく忠実に書いてみたいと思う。
 まずタイトルが出る。EVIL DOES NOT EXIST。タイトルの色使いがゴダールみたいだと思う。後のことになるけれども、音が急に止んだり、かと思えばやや暴力的に画面が移り変わってショッキングな感じでノイズが流れたりといった感じはゴダールっぽい。そしてそれは、後で述べる通り、単なるシネフィルごっこに留まっていない。
 そして、冬枯れの木を見上げている場面の主観ショットが続く。ロールシャッハテストのように、これは何を象徴しているのかを問うているよう。僕は、なんとなく血管のようだと感じた。ここから、血脈を読み解き次代への引き継ぎを描く作家もいるだろうけど、なんとなくそうはならないだろうなと思った。濱口監督がそこまでわかりやすいメッセージを打ち出さないだろうし、あと映像にしろ、かかっている音楽にせよどこか不穏。先に触れたゴダール的演出もそういった不穏さを増していく。
 冒頭からは山の奥で暮らす人々が描かれる。薪を割る男、チェンソーで木を切って、同時に落ちる様が気持ち良い。それから、水を汲んで階段を通り運ぶ様が描かれる。後から考えると、意味深いシーン。
 それから、薪を割る男がタクミというらしいことや、娘がいるらしいことが描かれる。娘の母親について描写がない(その後も出てこなかった)ことから、どことなくこの娘が象徴的な存在にも思えてくる。娘を学童に迎えに行くシーンのカメラがすごく人が操作している感じを表に出している様子とか、あと、林を通りながらいつの間に合流して背中におぶさっている様とか、おんぶお化けのようにも思える。
 また、この時点ではタクミの属する共同体がどういったものかは不明だ。最初は正直にいって、70年代的なコミューンの成れの果てかと思った。

 それから、おそらくここからが第二幕であろうけど、都会の芸能会社からグランピング施設の建設に関する説明会の様が描かれる。ここからしばらくは会話劇が続くんだけれども、『ドライブ・マイ・カー』(‘21)とかはこの会話劇についてそこまで面白いと思えず、マイナス評価となっていたが、今回は面白かった。タクミの抑揚のない演技が逆にリアリズムを産んでいたり、うどん屋の女性が話す様が、これまでの議論の中で頭の中で色々考えていて、それを丁寧に口に出しているのだろうなというのがわかるような、そんな感じだったから。あと、この時点でタクミたちがコミューンというよりも、もっと地に足のついた集団ということがわかる。そのほかに考えたこととして、領地の利用に関する言い争いという観点だと、沖縄に住んでいる人間としてはどうしても近いテーマを連想せざるを得ない。ああ、「決定権なき決定者」だ。それと同時に、自分も業者側の気持ちもわかってしまう。
 そこからはまた都会に戻った業者によるWeb会議による会話劇。画面の移り変わりは、ゴダール的暴力性。Web会議画面上でしか登場しないコンサル会社の人間と、奥の机に座る社長と思しき存在の間に挟まれる、説明会に参加していた男女。ここだけ見ているとコンサルや社長は「悪」じゃねと思ってしまいそうだけど、つまりは、後の展開から見るに、説明会のシーンで出てきた業者社員の男女も、ここでの立ち振る舞いや、後で出てくる車内の様子から見て、悪ではない、このことから、数学でいう互いに合同な関係性が示唆されるから、悪ではないのかもしれない。でも本音言うと、勤め人としての主観ではコンサルは悪だ。
 そこからまた山奥へ向かう男女が描かれる。この車内での会話が本当に最高だった。台詞でこそ出てくるが、山奥と都会の人物配置で高低差が示される部分はあまりない。数少ない場面が、水を運び階段を登るところ。そして、車内のシーンでふと気づく。ああ、そうか、この展開もよくよく考えれば、濱口監督お得意の、ワークショップをきっかけに演じていた役割と本来の自分とが影響を及ぼしあうものだ、と。

 山奥に着いてからがおそらく第三幕になる。男女は程度の違いはあれど、タクミに感化されている。男の方は薪を割り思わず言う。気持ちいい、と。それから、タクミからグランピング施設は鹿の通り道であることが聞かされる。その後、タクミの娘がいなくなる。

 まず、冒頭で「血脈」だと思った冬枯れした木の枝枝について、説明会で話された生活用水を井戸水に垂れ流す危険性や、それを受けた区長の発言から見て、もしかすると「水脈」ではないかと思った。ただ、元々中に水が通っている枝を水脈のメタファにするには、少し重複表現という気もした。ただ、後半、タクミの娘ハナの失踪から、煙に似た表現が頻出する。タクミはここぞとばかりタバコを吸い出すし、ハナが失踪する前に見ていたのは干し草から煙が上がる様、業者の女がタクミの家で待つ美しいショットは、その美しさの多くを蒸気が画面全体を覆うさまに拠っているし、ラストの平原も霧に覆われている。単に物語を読み解く限りは、自然は美しいだけでなく恐ろしいものだ(そしてそのことを都会からきた人々は思い知り、元からの住人は受け入れる)といったものだが、その恐ろしさ発動のタイミングは、本来下に向かって流れるはずの水が上に向かうこと、つまり、蒸気となることと連動している。そして、画面を霧が覆い、自然のある決定的な審判が下されたあと、木の影を求めても闇に覆われ見ることは叶わない。ダメ押しのように出てくる「EVIL DOES NOT EXIST」。

 そのほかには、この映画の森や鹿の描き方がラース・フォン・トリアーの『アンチクライスト』(‘10)に似ているな(ということは子どもに関する顛末も予想できるな)と感じると同時に、やはり小さい子供を持つ親としては、観ていて辛い場面もあった。
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