YasujiOshiba

僕はキャプテンのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

僕はキャプテン(2023年製作の映画)
-
イタリア版BD。24-34。フランス語・ウォロフ語のオリジナル言語、イタリア語字幕で鑑賞。

ラストで落涙。現代のオデュセイア。多くの語りを聞いて、それを語り直すこと。口承文学が文学の起点であり、オーラルヒストリーが歴史をラディカルに改変しながら原点に戻るのだとすれば、この映画はオーラルヒストリーから立ち上がる。

ここに見る冒険譚は現代の冒険譚であると同時に、ホモ:モビリタスとしてのぼくらが世界を夢見るときの夢の映像化であり、フランコ・モレッティをもじっていうなら「チネマ・モンド」なのかもしれない...

2/7
一夜明けた。いい天気だ。

BDを再び手に取る。ディスクには特典映像がない。けれども美しい写真付きの冊子「プロダクション日誌」が入っている。その4章「砂嵐」(capitolo 4 TEMPESTA ) に村上春樹の『海辺のカフカ』(2002年)が引用されている。見てみよう。

~~~~~~~~~~~~~~
ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。君はそれを避けようと足どりを変える。そうすると、嵐も君にあわせるように足どりを変える。君はもう一度足どりを変える。すると嵐もまた同じように足どりを変える。何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰りかえされる。なぜかといえば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係ななにかじゃないからだ。そいつはつまり、君自身のことなんだ。君の中にあるなにかなんだ。だから君にできることといえば、あきらめてその嵐の中にまっすぐ足を踏みいれ、砂が入らないように目と耳をしっかりふさぎ、一歩一歩とおり抜けていくことだけだ。そこにはおそらく太陽もなく、月もなく、方向もなく、あるばあいにはまっとうな時間さえない。そこには骨をくだいたような白く細かい砂が空高く舞っているだけだ。そういう砂嵐を想像するんだ。(新潮文庫上巻 p.10)
~~~~~~~~~~~~~~

「夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに」(come una danza sinistra con il dio della morte prima dell'alba)足取りを変える砂嵐。ぼくらは、ガッローネの映像にそんな「不吉なダンス」を見る。たしかに運命なのだろう。自分とは関係なく、別の場所からやってくる災いではなく、自分の中にある運命。だから「死に神」なのだ。

そんな運命を念頭におくからこそ、ガッローネは経済的な困窮や戦争などで住む場所を追われる難民を描かない。そういう移民もいる。けれども、ガッローネが選んだセイドゥー(Seydou)とモウッサ(Moussa)のふたりは、セネガルの比較的平和な暮らしを捨て、ヨーロッパを目指す。あたかもイタリア人や日本人が豊かなアメリカにあこがれるように、このセネガルの若者は自分たちのことを「ヨーロッパが待っている」と思うのだ。

なにしろかれらはスマホを持っている。それは世界へ開かれた窓だ。その窓の向こうがに、自分たちが立っている姿を想像する。そして、その場所へ激しく惹かれることになる。それもグローバリズムなのだ。

この視点が、これまでの移民の映画を転倒させる。ヨーロッパにやってくる移民を、ヨーロッパから見つめる視点は、いくつもの移民映画を作り上げてきた。それが移民映画というジャンルを作ってきたのではないか、とガッローネは言う。自分が撮りたいのは違う。自分自身にも正直でありながら、現実にも忠実なものが撮りたい、そう思ったというのだ。

それは危険な企てだ。どうやってヨーロッパ文化にどっぷり浸かったイタリア人ガッローネが、アフリカの大地からやってくる移民たちの視点に立つことができるのか。どうやって彼らに寄り添うことができるのか。知らない言葉を話す者たちの気持ちをどうやって描くのか。一番危険なことは、わかったようなふりをして、こちらが描きたいものを押し付けること。わからないものを、わからないままに描くことは、どうすれば可能なのか。

ガッローネには経験がある。その初期の作品『Terra di mezzo』はローマの街の移民たちを追うセミ・ドキュメンタリーとして、ローマ郊外で娼婦をするナイジェリアの娼婦たち、アルバニアから来た少年たち、そしてエジプトからの移民に寄り添い、その姿をカメラをおさめている。

その名を世界的にした『ゴモラ』(2008)でナポリの人々に寄り添うのだが、彼らだってガッローネにとっては「わかったふりをすることができない」人々だったはず。その前の『Primo amore』(2004)の細身の女性への妄執的な偏愛に生きる金細工師にしてもしかり、『リアリティ』(2012)にはナポリのカモッラの一員で殺事件に巻き込まれ終身刑の囚人アニエッロ・アレーナとの出会いがある。

『Primo amore』(2004)短評
https://hgkmsn.hatenablog.com/entry/2023/03/26/160203

『リアリティ』(2012)について
https://hgkmsn.hatenablog.com/entry/2015/01/16/005044

ガッローネに、そうした「わかることのできない人々」への眼差しが通底しているとすれば、そうした人々の運命を見つめることで、ガッローネ自身もまた、その運命に巻き込まれてゆく。それが、彼のが言うところの自分自身に正直でありたいという気持ちなのだろう。

だからガッローネの作品には人間が写っている。それはチネマ・アントロポモルフィコ(@ヴィスコンティ)として、ぼくたち観客をも「わかることのできない人々」の運命に巻き込んでゆく。なるほど。だから村上春樹なのかもしれない。上のプロダクション日誌には、さらにこんな引用が続いている。

~~~~~~~~~~~~~~
そしてもちろん、君はじっさいにそいつをくぐり抜けることになる。そのはげしい砂嵐を。形而上的で象徴的な砂嵐を。でも形而上的であり徴的でありながら、同時にそいつは千の剃刀のようにするどく生身を切り裂くんだ。何人もの人たちがそこで血を流し、君自身もまた血を流すだろう。温かくて赤い血だ。君は両手にその血を受けるだろう。それは君の血であり、ほかの人たちの血でもある。そしてその砂嵐が終わったとき、どうやって自分がそいつをくぐり抜けて生きのびることができたのか、君にはよく理解できないはずだ。いやほんとうにそいつが去ってしまったのかどうかもたしかじゃないはずだ。でもひとつだけはつきりしていることがある。その嵐から出てきた君は、そこに足を踏みいれたときの君じゃないっていうことだ。そう、それが砂嵐というものの意味なんだ。(新潮文庫上巻 p.12)
~~~~~~~~~~~~~~

何が起こったのかわからないけれど、ぼくらはそこに巻き込まれ、いつのまにか前とは違う場所に出ている。それを中動態的な経験と言うならば、ガッローネの「Io capitano」でぼくは、まさにそんな経験をしたのだと思う。

追記 2023
忘れないうちに。ネタバレありますよ、注意。

- ガッローネは「Io capitano」と叫ぶあのラストシーンから映画を出発させたのだという。

- セイドゥーのような未成年が船の舵を握らされた背景には、違法移民業者(scafista)を取り締まる罰則強化がある。だからこそ、罰則が軽く済む未成年であり、なおかつ誰もやりたがらない「船長」(capitano)をやらないかと、金のない彼にもちかけられたというわけだ。

もちろん、セイドゥーはそんな取り締まり法があることを知らない。知らずに、目的を達成したことを喜ぶ叫びは、同時に、その後収監される運命を告知する叫びでもあるというわけだ。

- 現在では厳罰化はさらに強化されたというけれど、そんな法律では移民問題は解決されないことは明らか。

詳しくは、この記事などを参照:

1)映画について
https://www.internazionale.it/essenziale/notizie/annalisa-camilli/2023/09/06/io-capitano-film-garrone

2)移民業者(scafista)について
https://www.internazionale.it/essenziale/notizie/annalisa-camilli/2023/03/17/scafisti-italia
YasujiOshiba

YasujiOshiba