Kuuta

ある閉ざされた雪の山荘でのKuutaのレビュー・感想・評価

ある閉ざされた雪の山荘で(2024年製作の映画)
2.9
「登場人物を演じるうちに虚実の狭間に迷い込むミステリー」で言うと、昨年の水曜日のダウンタウンの「名探偵津田」があまりに傑作だったので、あちらがおすすめです(確認したら今月中はTVerでタダで見られる)。自分の世界線を見失って発狂する津田の姿が楽しめます。

原作は東野圭吾にハマっていた高校時代に読んでいて、「漢字一文字で全てひっくり返る」という帯のコピーが印象に残っている。事件自体は大したことないのだが、本当に一文字でひっくり返る仕掛けから話の締めまで「文章ならではの語り口」が巧みな作品で、懐かしさ半分、あれを映画化…?との興味半分で観に行った。

結論から言うと、全然上手くいってなかったです。

以下、原作含めてネタバレします。
















・オーディションか殺人か、と引っ張って、実は殺人に見せかけた演技でした、という事件の構造自体は、元々そんなに面白いものではない。

原作最大の山場は、客観的に情景を描写をしていると思われた「地の文=神の視点」が、隠し部屋から事件を覗き見る雅美視点だったと分かる、叙述トリックが明かされる場面だ。

「さあ、出てきてください。あなたのことです」。久我はくるりと身を翻し、私を指さした。

そこそこ時間をかけて読んできて、突然地の文が「私」と言い出した時の衝撃たるや。確かに読み返すと、彼女の視点で見えないものは地の文に書かれていない。

終盤の地の文は久我視点が貫かれていて、斜に構えた変な奴に見えた久我が、みんなの演技に堪えきれなくなって素直に涙する。この時の心境を地の文で吐露する、というオチが付いている。映画でも久我は最後に泣いていたが、文体のメタな面白さが抜け落ち、原作の出来事を表面的になぞるだけのシーンになっている。

この久我の涙に、今作の問題は集約されている。わりと凡庸な「良い話」に落ち着く三層構造を、文体の力でドラマチックに見せていた原作に対し、地の文を持たない映画は「三層構造だけ」を再現する格好になっている。原作の魅力のかなりの部分が削がれており、映画から入った人からすると、映画化するほどの話か?と思ったのではないだろうか。

・文体の代わりにカメラや編集で騙してくれるなら、映画ならではの面白さが見られるかもしれない。観る前は、撮影しているカメラマンが犯人だった、くらいのことやらないと「私」が現れる衝撃は再現できないと考えていた。

今作は、雅美が見る監視カメラ映像を繰り返し入れることで、「隠れたメタ視点」を仄めかしている。しかし、監視カメラを「神の視点」と思う人は誰もいないし、誰かが近くで見ているんだろうなと、自然に考えてしまう作りになっているので、原作の一番美味しい要素が台無しになっている。何の捻りもなく雅美が隠し部屋から出てきて「マジか…」と思った。この部分に関しては、作り手は面白く見せることを諦めている感じがした。

・原作はそれなりに久我が推理を組み立てて三層目まで辿り着くのだが、小説のような細かい伏線は拾いきれないとの判断か、久我の活躍は非常に少なく、ほぼほぼ犯人が独白してしまう。映画版の久我のさっぱりしたキャラも私は嫌いではないが、結局こいつ何もやってねーな感、ミステリーとしての物足りなさは致命的に大きい。

・隠し部屋の存在は、原作にも挿し絵が付いている山荘の見取り図を見ると、なんとなく分かる仕組みになっているが、これは原作からして結構強引な部分なので、強調しなかった映画の判断は間違っていない。

原作ファンへのミスリード&映画オリジナルの四層目への導入として、見取り図を模した舞台上の俯瞰視点(トリアーのドッグヴィルみたいなやつ)を入れたのは良いアイデアだったと思う。車椅子の役者、というインクルーシブな新要素も好感。

・「演技」が焦点となる今作、文章では役者の名演は表現できないだけに、演技次第で映画が小説を上回る可能性は十分にあったはずだ。

演じたくないけど演じる、本気で演じる、演技抜きで感情を露わにする…こうした演技上の階層の移動は大きな見せ場になるはずだが、今作の役者陣に表現出来ていたとは言い難い。例えばタランティーノのワンハリで、「大根役者が一世一代の名演を見せ、そんな自分に感動して泣いちゃう」姿を表現したディカプリオの演技は本当に素晴らしかったけれど、ああいう場面は見当たらなかった。
Kuuta

Kuuta