イスケ

めまいのイスケのネタバレレビュー・内容・結末

めまい(1958年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

1958年かぁ……
めまいショットなどの技法やサイケな映像、劇中のシーンのひとつひとつの構図が素晴らしくて、まず視覚から幸せ。
その上、メタファーを読み解いていくような面白さがあるのだからたまらない。

螺旋から抱くイメージには、「循環」であったり「遺伝子」であったり「ねじれ」などがあります。

そのため、特に第二部からはどことなく輪廻や「違う精子がゴールを決めていたら? 」というIFの並行世界のような感覚でした。(もちろんそうではないでしょうが)

もしくはマデリンの落下をキッカケとして、カリガリ博士やシャッターアイランドパターンのような形で、スコティだけに見えている世界に迷い込んだようでもあったな。ある種、異なる世界に生まれ直したとも言えますから。

ジュディにマデリンを求めたジョニーの要求に渋々応え、後ろ髪を結んで「完璧なマデリン」として部屋から出てきたシーン。
彼女に降り注ぐグリーンのライトが幻想的で夢の中のようだったじゃないですか。あれがジョニーの中に存在しているもう一人のジョニーが見させている幻想にも見えたんです。本当はミッジと一緒に病院の中にいるのでは……なんて。


それぞれの部の終わりと始まりの起点となっていたのが、ジュディが落下した塔でした。
塔からの落下をトリガーとして、特異点のような病院のシーンを挟み、第一部と第二部が繋がれる。これが生まれ変わりの手順のようにも思えてきます。

「死」への儀式としての『落下』の隣り合わせにあるのは、出産という「生」なので、あの塔自体が女性の体のメタファーなんじゃないかも想像もできました。


ここまでの話だと、本作のタイトルは「らせん」で良いと思うんですw

しかし、タイトルが「めまい」であるのは、循環やら母性やらはそれ自体がメインテーマではなく、あくまでも「トラウマ」というものが本作の主軸だからだと思います。
ジョニーにとってのトラウマが発動する際に伴うのが「めまい」ですからね。


しかし、彼にとってのトラウマが本当に高所恐怖症だけだったのかが疑問です。
メタ的に見てそんな狭い範囲の物語にするとは思えないという点も理由の一つですが、感覚値としてどうしても女性へのトラウマのような気がしたんですよ。

ジュディと再会してから執拗にマデリンの姿を求める姿に、思いもよらぬヤバい方向に進んでるなと思ったものですがw、この病的な姿を見てもトラウマの本質はこっちなんじゃないかと。


病院の中でミッジが「大丈夫よ、ママはここにいる」という言葉を使って、ジョニーに語りかけるシーンに、若干の違和感を感じました。
だって好意を寄せている男性に「ママ」だなんて思われたい人います?

でも一拍置いて考えてみると、それは見返りを求めない愛であり、「母性」そのものが表現されていたんじゃないかと思えてきました。
ミッジは常に愛してくれる「母」のような存在であり、ジュディやマデリンのように掴みきれない「女」とは種類が異なる。

女性への畏怖?
その体からの出産を経て、世に生まれてくることそのものへのめまい?

正直、言語化できません。
でも面白い。面白すぎる。

循環の物語なのだとしたら、この後に我々の知り得ない第三部があるのかもしれません。
ジュディの転落した姿を見た時にジョニーはめまいを起こしていませんでした。女性を犠牲にすることでトラウマを乗り越えたのか。

いずれにしてもジョニーの幸せな結末が想像はできません。
イスケ

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