定刻5分前に次々に現れたエリート大学生たちは、プライベートな馬鹿話から素晴らしい集中力で演奏モードに切り替わる。時計が9時の針を示すのと同時にフレッチャーが611教室に入ると、現場の空気は一瞬で凍りつく。激情家で鬼軍曹のようなフレッチャーの指導ぶりはストイックで残酷で容赦ない。プレイヤー(演奏家)たちの尊厳を一瞬で踏み躙るような彼の言動は2000年代の社会の空気では明らかにパワハラでアウトなのだが、それでもエリートたちは何とかフレッチャーに食らいつこうとする。しかし現代においてシェイファー音楽院のような学校に入学する若者というのは、相変わらずほとんどが裕福な白人なのだろうか?実際、ドラマー以外には何人か黒人のプレイヤーたちも紛れてはいるものの、どういうわけかアンドリュー・ニーマンを筆頭に、その鞘当てにされた気の毒なライアン(オースティン・ストウェル)もタナー(ネイト・ラング)もJAZZの歴史には門外漢な白人ということが、何とも象徴的に思えてならない。
最初のシークエンスでは、うっかりスクリーンの前で涙が滲みかけたが、それはあくまで鬼教官の仮の姿であって真実ではない。狂気の師弟関係はニコルとの普通の付き合いすらも否定し、「僕は偉大になりたいんだ」と彼女の前で呟くニーマンの姿は明らかに狂気じみており、その後表出するエゴは観るに耐えないものだが、監督であるデイミアン・チャゼルはどういうわけか偽りの父子関係で生じた生々しいエゴすらも、100%自己肯定し意に介さない。賛否両論巻き起こった今作の心象の違いは、この倫理観の数cmの僅かな誤差にある。メンバーの中で最年少にして、フレッチャーに直々に指名されたニーマンの優越感は幾度ものコミュニケーション不全を引き起こしながら、やがて大きな事故を巻き起こす。「次のチャーリー・パーカーは何があろうと挫折しない」というフレッチャーの言葉は、珍しくペテン師のワードの中では真実たり得る言葉となる。ニーマンは現代人の多くが母親の子宮の中のような安全圏を欲する中、あえて狂気の世界へ自らのめり込んでいく。ここでは現実の父親のやや過保護気味な抱擁を否定するように、ハゲ面に青筋を立てたフレッチャーとの狂気とのアイコンタクトだけが彼の狂気に行き着く先を与える。ラストの『Caravan』の狂気のドラム・ソロは、間違いなく2000年代アメリカ映画の屈指の名場面に違いない。永遠に色褪せない21世紀の力作である。