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木立の中の日々
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『木立の中の日々』に投稿された感想・評価

煙
3.8
マドレーヌ・ルノーの独壇場。ビュル・オジエの赤いドレス。とても演劇的。終盤、帰宅後の家でのマドレーヌ・ルノーの登場の仕方など。音楽も良い。
4.9
コメディっぽい会話と演出で笑い声すら聞こえてきたけどラストの心情吐露で持ってかれた。バースツールに腰掛けたビュル・オジェの真っ直ぐ下がる脚がうつくし。自分が気に留めなければ誰も見向きもしないであろうものだけ愛していきたい。
✔️🔸️『木立の中の日々』(3.7)🔸️『子供たち』(3.1)

 デュラスも終盤、やはり直前キャンセルか何かか。二本をゲット。
 『木立~』。名優・撮影ら名スタッフ・美術や色合いへの感覚、少なくとも内容・演技・美観に於いて一般商業映画らの中に置いても、作品の本来の性格は違っても、まるで遜色ないどころか、ヴィスコンティやオーソンの名家系没落ドラマの最良作を、その何層にも捻ったベース・下層をも通底してく真に高貴な精神、において問題にしないくらいに凌駕する、真に価値ある、遺すべき名作というべきか。『山猫』や『~アンバースン~』を問題にしない。
 生来というか、晩年まで貧困層に数えられかねない暮らしから、工場どんどん拡張の波が生まれ、その前から他の4人の子供には、「完成」の形とルートを踏ませ得た、仏植民地の老女実業家が、バカラで財をすっては貧乏暮らしに甘んじて、老実業家夫妻の仏時代の老朽部屋に住んでる残りの息子に、植民地の工場は老女の娘の生残り策で国営化進み侭ならぬへ向かってるのへ対し、息子に敢えて大金を盗ませ与えるつもりで久方ぶりの帰国を果たすが、息子の破滅的性格・生き方は、老女と内的に繋がる、福祉施設育ち・バカと言われながらの勤め変えから社交界末席を拾ってもらったその妻の仲介に拘わらず改まることはなく、妻も身を引き離れるを知り、唯一息子を誇りに評価し得た自分が離れた後の任せや認めの消失を嘆く話。
 白い壁や床と・赤いカーテンの広い部屋らの住居、想い出のベトナムの住居の日射し差す緑の藁囲み、舞踏や社交の場の大鏡が仕切り・赤と言うより茶の深い格に包まれた空間を、ゆったりめも隙ない締まった(90゜)切返しや前後へや横へ滑りから回り込むような移動が、見た目華奢を突き抜け、真の気品と格調を直に与える移動、俯瞰めや半ば閉められた空いた扉越しの自然も高貴な呼吸図取り。映画てしての羽振りの良さを抑え、謙虚な威厳が生じてる。
 年齢的には異常な尽きない食欲、育ちや本国離れて長く高級レストランらの高値に不満隠さず、ボンボン払えるのに格好はつけず、いつ亡くなってもいいような世事や空気と遮断無関心・生気無しに見えて、必要前に動き回り喋り尽くす・若い世代以上に。バカラ擦りに持ち金吐き尽くす息子は、誰に対しても媚売らず、冷徹で人間暖かさを、欠く。工場群を息子に明け渡したい母だが、はみ出し紙幣を失敬する悪行以外の、正規譲渡を拒む息子。母の指示以前に彼から今度こそは離れてく愛人。母の死を願いもすりら表面で、生きてく景気づけをしてる息子は、懐ろも生活もとことん剥ぎ取られへ向かう。その息子の、権威や世論に頼らぬ、真の誇りを口に出さず称え、自分以外にそれが出来る愛人の離脱を、当然の外的形と推してはゆく。皮肉と口撃が行き交い、それらを一般感情や情けにすがり、活かさんとしてく妻は、離れてく事が事態の完成としてく。
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 これに比べると映像作遺作『子供~』は、テーマや対象はよりオープンでデカいのだろうが、バック窓らからの光感や景色空気はあっても、全編室内で、親子・夫婦・家族・教師・記者らがストレートに、極めて遅く鈍いテンポの切返しやカメラ移動も含んで、じっくり語り合う形だけで、より先鋭的単純化にしては、ワクワクくる緊張感・或いは退廃感が感じられず、ひたすら純粋なのか、工夫努力怠りなのか、分からない家庭と学校の1室ら、空間と時間が消化されてく。口調もごく一部を除いては高揚することもなく、平坦を続けてく。日常性を残した空間設定だったのかも分からないが、より進み呆れさす場が必要だったかも分からない。
 学校児童にしては周りから浮く身体大きさと年輩感、それを含みかつ纏まった捉えが出来ない学校とその教育というもの、そもそも学ぶ関心や意欲・取っ掛かりがあるのかないのか、教える側も何を教え指導し・判別してくのかまるでスタート点がない、そのくせ塗り替えるように教育というエリアに身を新規任せてく繰り返しの救い感、まぁ本質的というかそれすら存在しない手応え塗り尽くしなのか。観る側は表現に絶対を求めるのではなく、その足掛かりを探るのが映画体験・娯楽アート希求なので、立派すぎるのか、投げきってるのか、掴めないものの提供には困るだけの部分が大きい。