サマセット7

風と共に去りぬのサマセット7のレビュー・感想・評価

風と共に去りぬ(1939年製作の映画)
4.0
同名の小説を原作とする、1939年製作の映画。
主演はヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブル。
華やかな貴族文化が隆盛を極めるアメリカ南部。タラの貴族オハラ家の長女スカーレット(ヴィヴィアン)は周囲の男たちにチヤホヤされて我儘放題だが、ただ一人想いを寄せるウィルクス家の貴族アシュレーが貞淑な女性メラニーと結婚を決めてしまい、内心面白くない。
思い余ったスカーレットはアシュレーに告白するが、彼はメラニーと結婚すると言うばかり。さらに告白の現場を北部から来た傍若無人な伊達男レット・バトラーに見られてしまう。
スカーレットの想いを残したまま、時代は南北戦争に突入していく…。

名作オブ名作。
オールタイムベストランキング常連。
アカデミー賞9部門受賞。
当時としては破格の製作費。
黎明期のテクニカラーを採用。
映画史に残る有名なテーマ曲。
全編4時間近い、大作映画。

なるほど名作である。
1930年代にここまで完成された映画が撮られたことには驚嘆するほかない。
後年映画のジャンルが細分化されていくわけだ。この映画と正面から勝負しようとは誰も思うまい。
いまさらレビューもあったものではないが、私にとって強く印象に残ったのは、(1)一つ一つのシーンの絵画的な美麗さ、(2)作品にエンターテインメント性をもたらすキャラクター、(3)通底するテーマの普遍性、の3点であった。

(1)まず、何よりも、一つ一つのシーンの絵画的な、あるいは一枚の写真としての美しさ。
撮影技法や映像技術は進化しても、こうした絵画的なセンスは、当時と今とで変わらない。
要は、センスがあるかないか、である。
今作のシーンはどのシーンを切り取っても、そのまま名画になるほどであり、作者の映像センスが溢れまくっている。
しかも、各シーンの色合い、構図、影、衣装、美術などがいちいち登場する人物の心象を表現している。
例えば、冒頭スカーレットが両脇に男をはべらしているシーン。
映像だけで彼女のキャラクターが強烈に伝わってくる。
戦争中駅で横たわる膨大な戦傷者のカット。
戦争の恐ろしさを雄弁に語る。
その後業火に追われるアトランタのシーン。
常に遠くに見える炎の赤が、緊張感を高める。
前半終了時の夜明けのシーン。
もちろん現す心象は明らかである。
ラストに至るまで、全編映像の力は鮮やか。
これが1930年代に撮られたのだから恐れ入る。

(2)では、今作はアート的な意味でのみ名作かと言えば、はっきりそうではない。
今作はエンターテインメントとしても非常に優れている。
クラシック映画は退屈そうだから、という理由で敬遠するのは、少なくとも今作に限っては勿体ないと断言しよう。

今作のエンターテインメント性を駆動させているのは、なんと言っても主人公スカーレット・オハラのキャラクターである。
彼女は、男は騎士たれ、女は淑女たれ、という旧来の価値観から完全に逸脱している。
外向的、衝動的、直観的、利己的。
狡知に長けて、自己主張が強い。
プライドが高く、自分の弱みを他人に見せるのが大嫌い。
本当に愛している人には素直になれず、完全にツンデレを拗らせている。
打たれ強く、故郷への強い思いは誰にも負けない。
作中同様、彼女を嫌う人も多かろう。
私も好きか嫌いかでいうと微妙である。
しかし、その動向は、常識の斜め上であるが故に観る者を惹きつける。
スカーレットというキャラクター自体が、良質なエンターテインメントなのである。
演じるヴィヴィアン・リーの美貌、チャーミングな表情、時に高慢ちきで憎たらしい演技は文句の付けようがない。

スカーレットを取り巻く人間関係も、スカーレットを愛する色気あるワイルドガイ、レット・バトラー、スカーレットが想いを寄せる優男アシュレー、優男の妻にして慈愛の化身メラニーと、恋愛ドラマの王道たる四角関係で、万全の布陣。
スカーレットの行動が全て変化球であるが故に、4人の絡みにはどこかロマンチック・コメディ的なユーモアが漂う。
4時間近い上映時間だが、彼女たちの先が気になり、最後まで魅せ切る。

(3)アート的に優れて、キャラが濃いロマンスドラマ、とまとめてしまうには、今作のテーマはあまりに深い。

風と共に去りぬ、という題名は、アメリカ南部の貴族文化が、時代の流れと共に失われたことを意味する。
序盤の貴族社会の華やかな描写が優れているが故に、後半、その時代が戦争により失われたことは切なく胸を刺す。

今作は、諸行無常、盛者必衰を描いた、歴史ロマンでもあるのだ。
古くは平家物語、あるいはマリー・アントワネットを想起させる。
全編、幸せも不幸も長くは続かず、やがて風のように去っていく様子が繰り返される。
その無常感!
そして、前半ラストと全編ラスト、いずれも映されるスカーレットの立ち姿のメッセージ性は強烈である。
今日1日がどんなに苦痛に満ちていても、明日は必ずやってくる。
そして、明日は今日とは別の日なのだ。

これぞ名作。
凄いぞ、名作!!

追記
ところでしばしば今作はアフリカ系アメリカ人に対する差別を助長する作品として批判の対象になる。
今作は、徹頭徹尾南部白人の視点から南北戦争前後の歴史を描いた作品である。
作中アフリカ系アメリカ人たちが、南部白人の僕として扱われる姿がまるで自然な風景のように描かれている。
その中では、南部白人も南部のアフリカ系アメリカ人たちも差別や奴隷制を当然の前提として受容している。
慈愛の化身メラニーさえ、人種差別制度自体は問題としない。
むしろアフリカ系アメリカ人たちは南北戦争前の方が幸せに生きていたかのような描写が頻出する。
そして、戦後もスカーレットやアシュレーが奴隷制について反省したり後悔する描写、あるいはマミーやサムがスカーレットたちを恨む描写は一切ない。
これらはあくまで南部白人の視点から見た主観的な描写である。
彼らは問題を問題として認識していなかったのだ。
この意味で、今作が南部の人種差別を克明に描いた作品であることは間違いない。
文化にまで落とし込まれた差別は、差別者、被差別者両方から所与の前提とされ、固定化してしまう。
今作はその様をリアルに描いている。
何しろ、原作者のマーガレット・ミッチェル自身がゴリゴリの直系南部白人である。
今作の描写には、彼女が伝え聞いた当時の白人たちの主観的な認識がそのまま反映されていると考えるべきだろう。

では今作が差別を「助長」する作品と言えるか?
私はそうは思わない。
少なくとも私の差別意識は助長されない。
現代において過去の映画を観る者には、能動的に現代的視点から、問題を問題として認識するリテラシーが要求されていいと思うのである。
そして人種差別描写が今作の歴史的価値を損なうとも思わない。

とはいえ、アフリカ系の方がこの映画を観て不快な気持ちにならないか、というのは全く別の問題である。
仮に彼らの立場に日本人があったら、と考えると分かりやすいだろう。
この問題はなかなか難しく、議論があって当然である。
少なくとも、南部白人の視点に対して、別の角度からの批判的視点が入っても良かったのではないか、というのは、今作に対する当然の批判だろう。
HBOが、今作の配信を一時停止し、その後人種差別に関する解説付きで再配信したことは支持したい。