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カスパー・ハウザーの謎のninjiroのレビュー・感想・評価

カスパー・ハウザーの謎(1974年製作の映画)
4.3
旅の夢は永遠に終わらない。

早朝のとある広場、その手に手紙を持って佇む汚れた身なりの少年が発見される。
少年は10代半ばと見られるその姿容にして言葉を殆ど知らず、身許を示す物の一切を持たなかったため孤児として扱われ、当局の保護の下、囲む人々の意識の程度に差は有れども、概ね下世話な興味と嘲笑の対象として人々の好奇の目に晒されながら暮らすことを余儀なくされる。当初は歩くこと、座ること、食べることといった生活習慣の概念の殆どを持ち合わせていなかった少年は、人々に「教えられる」ことにより急速に会話や文字、与えられた習慣を身に付けて行く。

19世紀前半のドイツ(バイエルン王国)に実在した孤児、カスパー・ハウザーの伝記的物語である。
現在に伝えられる彼の生涯のうち、およそ客観的事実として確認されている部分を中心に構成されており、彼自身の口述や記録を端緒として現在まで語られることとなった出自に係る謎や陰謀諸説等については幾分控えめに語るに止められている。
作りようによっては、多くの人が興味を抱くであろう何故彼が突如としてこの「世界」へ置き去りにされたのか、また何故彼が再び「世界」から連れ去られてしまったのかといった謎の根幹にフォーカスし、現在では一般に定説化した推測や憶測を交えながら本作をドラマティックに描くことも可能であった筈だが、少なくともヘルツォークの興味がそこにはないことは作中に明らかである。

彼は産まれて間もなくから広場で保護される16歳までを地下牢に監禁されて育ったと伝えられており、その間一切自分以外の人間の姿をも認識しないまま過ごし、日を浴びることも、歩くこともなく、壁を隔てた向こうに世界が・社会が存在するという認識、そもそも普く総ての何らかの「存在」や「意味」という概念すらも抱くことなく、突如として社会へ放り出された。
言葉を認識し、意思を他者と通わせることが出来るようになった彼に、社会はなお教化・教育という御旗の元、神による創世や論理的思考、社会全体の利益に供する規範などへの理解を強制しようとするが、緩やかな社会同化の過程を経ない彼にとってそれらは到底理解できない異常な概念であった。
受け入れ難いこれらを根底から拒み続けた結果、彼は社会的異物として今日まで認識されることとなる。

一人睡るベッドの中だけが安息の場であると述べる彼の心情は、それと知らず自由を奪われ続ける我々自身の魂が叫ぶ声を代弁している。
かつて監禁された地下牢は無論彼にとっての安息の地であった訳ではなく、只押し付けられるように与えられた極端な環境に有るがまま順応していたに過ぎない。
しかし我々にとって異常に見える、その社会と断絶した環境こそが彼にとっての「世界」であった事実は変わらず、かつて置かれたその環境が苛酷であるという意味付けを成す術すら持たなかった彼にとっては、外界でもたらされる「意味」はかつての「世界」を否定することを意味し、外の世界に生きるために当然のように纏うことを求められるあらゆる価値や倫理もまた、一度は解放されたかの様に見えた彼に掛けられた新たなる枷に他ならなかった。
最終的に社会は望まず生まれてしまった異物を、その通念が許容し想定する範囲の中に落とし込むことで偽りの安心を得ようとする。
そして変わらず社会は、人は何故産まれて生きるのか、といった「意味」がもたらす矛盾とも言える根源的な問いについては答えず蓋をしたまま、恐ろしいまでのスピードで次々と生まれる目先の課題をまたも都合よく意味付け続ける。

如何なる運命の選択も我が物にならなかった彼の人生は、現在に至るまでその殆どが謎のまま残されている。
我々が今知る社会そのものの立脚点、神や愛、自由に正義、それに付随する義務や責任、それら全ても彼が残した人生の謎と同じく不確かである。

しかし彼が、我々が、ベッドの中で描いた終わりを結ばない夢だけは、彼の魂の中で、自由を求める我々の心の中で永遠に終わらず旅をし続ける。

確かなものなど何もない。
全てはそこから始まるのだ。
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