サマセット7

いまを生きるのサマセット7のレビュー・感想・評価

いまを生きる(1989年製作の映画)
4.3
監督は「刑事ジョン・ブック目撃者」「トゥルーマンショウ」のピーター・ウィアー。
主演は「レナードの朝」「グッドウィルハンティング」のロビン・ウィリアムズ。

1959年、アメリカ・バーモントの全寮制学校ウィルトン・アカデミーでは、伝統と規律を重んじ、親たちの期待に応えるべく、進学に向けた厳密なカリキュラムが組まれていた。
新学期、転入生のトッド(イーサン・ホーク)は、同室のニール(ロバート・ショーン・レナード)ら同級生から歓迎されるも、親から十分な愛情を受けていないことに引け目を感じていることもあり、なかなか馴染めない。
そんな中、同校の卒業生で新任の英語教師キーティング(ロビン・ウィリアムズ)は、初授業で生徒たちを教室外に連れ出し、教科書はそっちのけで、人生の秘訣「いまを生きる」ことについて語り始める。
やがて、キーティングからの教えに影響を受けたニールら友人たちは、キーティングが在学時代に開いていたという「死せる詩人の会」を再結成し、「いまを生きる」ことを実践しようと秘密裏に活動を始める。
トッドも会に引っ張り込まれるのだが…。

1989年のアメリカ映画。
世界で2億3000万ドルの大ヒットになった。
2014年に亡くなったロビン・ウィリアムズの代表作として知られる名作。
感動する映画などの特集でしばしば選出される。
全般に高い評価を得ており、特に一般層から非常に高い支持を集めている。
アカデミー賞脚本賞受賞。

ジャンルとしては、学園を舞台にしたヒューマンドラマ。
原題「死せる詩人の会」。
詩を題材にして、英語教師が厳格な進学校の生徒たちに、自分の頭で考えて、自分の手で人生を掴み取ることを教える様と、その結果、教師と生徒たちが至る顛末を描く。

今作は、抑制の効いたテンポで進む学園ドラマであり、学生たちの成長と葛藤を描いた青春ドラマであるが、他作と比べて追随を許さぬ程に、非常に啓蒙的な内容を含む。
さらに言うと、今作は、異なる2つの思想の対立と軋轢を描いた作品でもある。
扱うテーマは、非常に深く、重い。

というわけで、今作の最大の見どころは、優れた脚本が伝える、人生についての深遠なメッセージにある。
とはいえ、今作は、メッセージ性だけの映画ではない。

派手な演出はないが、端々に、はっとするシーンが頻出する。
例えば、有名な、教卓の上に生徒たちを立たせるシーン!
あるいは「詩せる詩人の会」を開こうとするニールたちが夜に学寮を抜け出し、暗い森に向かうシーン!
「いまに生きる」を実践する、生き生きとした各シーン!!
特にトッドの親からのプレゼントに関する印象的なシーン!!
終盤のとある展開に至る一連のシーン!!
学園の校長に呼び出されるシーン!!
そして、あまりに有名なラストシーン!!!
オーストラリア出身のピーター・ウィアー監督は持ち前の興味に満ちた、異文化を鮮やかに浮かび上がらせる腕前を見せつける。

演者の自然な演技も、大きな見どころだ。
校長や、抑圧的な父親は、あくまで憎憎しいが、自分なりの正義に対する確信を表現して説得力がある。
一同のリーダーで父に逆らえない中、将来の夢に気づくニール、流されるだけだったトッド、恋に積極的になるノックス、体制への反逆に目覚めるチャーリー、体制に流されることを受け入れるキャメロンなど、個性的な若者たちのみずみずしい演技も、実に青春していて眩しい。
若き日のイーサン・ホークの可愛さを残した10代の姿も見られる。

もちろん、一人挙げるなら、ロビン・ウィリアムズとなる。
アメリカで最も有名なコメディアンの一人であり、温かみと陰を同時にもつ人物を演じられる俳優として高名な才人は、等身大の自然さで、キーティング先生を好演。
若者たちに、いまを生きることの大切さを教える彼の姿は、確信に満ちているが、どこか寂寥感を忍ばせる。
その一言一言が一際胸に沁みるのは、彼の存在の力が大きい。
ロビン・ウィリアムズ自身、生涯依存症や躁鬱病と闘い、闘うが故に喜劇を演じ、闘いの果てに自らの手で人生の幕を閉じた。
彼の姿や人生は、キーティングの姿や言葉にそのまま重なる。
代表作と言われる所以である。

今作のテーマは、まずは、自分の頭で考え、他人が敷いたレールに乗るのではなく、自分の意志で、主体的に生きることの重要性と素晴らしさにあろう。
別の言い方をすれば、死ぬときに後悔のないように、思うように生きよ、自分の人生のリーダーとなれ、という考え方。
キーティングの数々の教えと、学生たちの勝ち得た瑞々しい青春の栄冠が、雄弁に物語る。
特に印象的なのは、邦題となっている「いまを生きる」であろう。
キーティングのラテン語の引用を直訳すると、「現在を掴め」か。
すなわち、前世でもなく、来世でもなく、過去でも未来でもなく、今日を、悔いなく生き抜くこと。

しかし、今作のテーマは、そこのみに止まらない。
今作は、大きく2つの思想の対立と軋轢を描いている。
組織への従属と引き換えの表面上の安定か、個人の解放と引き換えの「不安定」か。
意思を捨て歯車として体制に身を委ねるか、自由意志と相反するなら体制すらぶっ壊すか。
自分を殺して規律に従うか、自分の欲求に従い規則を無視するか。
あるいは、快楽主義と、禁欲主義。
アリとキリギリス。
自らの肉体の実存を信じ、現世の快楽を求めるか、一部の支配的宗教の説くように、現世では苦役を果たして来世に賭けるか。

キーティング先生は、そこまでは言っていない。
彼は精神の自立を説くだけだ。
彼は、支配体制と対立した時の穏当な方法も伝えている。
すなわち、粘り強く、話し合いを試みること。
時機を見ること。
時には精神の自立を保ったまま、体制に従った振りをすること。
しかし、若く未熟な魂は、易々と、越えてはならないラインを踏み越える。
暴走する。
恐怖ゆえに、穏当な対決方法を見失う。
待っているのは、支配体制に踏み潰される個人、という悲劇だ。

そう、今作は、先生の教えで精神が自立してめでたしめでたし、というお花畑のような甘ったるい話ではない。
体制、組織、社会、集団、権威、効率主義、資本主義、成果主義といった、巨大ななにものかに相対して、個人の精神の自由を守るため、命を賭けて戦う話だ。
「いまを生きる」ことの、大切さや素晴らしさを謳うと同時に、「いまを生きる」ためには、代償や覚悟や戦略戦術が要るという、厳しい現実を直視させる話だ。
そこまで描いているが故に、今作は名作なのだと思う。

キーティングが起こした思想の波は、何を生み出したか、あるいは、生み出さなかったか。
前半のキーティングの全ての授業内容が一挙に谺する映画史に残る印象的なラストシーン。
観客の胸に去来するものは何か。
彼の教えを生かすか、殺すか。
生徒たち同様、我々観客も問いを突きつけられる。
死に物狂いで、いまを生きるか?
死人のように流されて生きて、来世に託すか?

いやいやいや、と思う方もおられよう。
もう少しやりようがあったのでは?と。
あるいは、結局は結局、結局じゃないか!と思う方もいるかも知れない。
私は思った。
ただし、胸に残ったモヤモヤは、製作者の意図したものかも知れない、とも思うのである。

名優の代表作にして、観客各自に、人生についての鋭い問いを突きつける名作。
はっきり言って、観たからといって、分かりやすく元気をくれたり、感動の涙を流させる作品ではあるまい。
しかし、何か行動するきっかけにはなるかも知れない、そんな作品である。

なお、有名な「おお、船長、わが船長」というセリフが引用された詩は、本来、以下のように続く。
「辛い旅路は終わった。
船は耐え、船倉は埋まった。
港は近い、鐘の音、歓呼の声、
竜骨と船体に注がれる視線。
なのに、心よ、心よ、心よ。
甲板には、赤き滴りが流れ、
船長が伏して、
冷たき亡骸として横たわる。」
詩は、著名な詩人ホイットマンが、暗殺されたリンカーン大統領の功績を讃え、死を悼んで捧げた詩である。
1989年製作の今作でこの詩が引用されたのは、ホイットマンという詩人のまさに「いまを生きよう」という詩想を体現する趣旨だったか。
2014年、ロビン・ウィリアムズの死に接した今となっては、ロビン自身の追悼の詩のようにも思えてくる。