YasujiOshiba

ホテル・ルワンダのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

ホテル・ルワンダ(2004年製作の映画)
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DVD。なぎちゃんのお相伴でようやくキャッチアップ。なかなか手がだせなかった作品。実話だと知っていた。ルワンダの虐殺の理不尽さをリアルタイムで感じていたというのもある。

でも、なかなかの娯楽映画。ラストにかかる曲がいいんだよね。ワイクリフ・ジョンの『Million voices』。そのメロディと韻律とリズムに、救われる思いがした。「ルワンダよ、ルワンダよ」という声は、「子どもたち叫び」なのだから。(https://www.youtube.com/watch?v=dFo7EpLOZUw)

実話なんだけど、残酷な部分は、あくまでも映画として見せてくれた。たとえば、倉庫で、ナタで一杯の木箱が開いてしまうシーン。イタリア映画の『Anni difficili』(1948)のなかで、スペインのフランコを助けるためにムッソリーニが秘密裏に送った武器が、オレンジの木箱から大量で出てくるシーンを思い出した。ああ、この大量の武器で人が死ぬのかという予感。そしてその予感があるから、残酷な殺人シーンはチラリと見せるだけで十分に怖いというわけだ。

あっと思ったのは、 西側のカメラマンを演じていたホアキン・フェニックス。虐殺を撮影し、その残酷な映像を、ルワンダ人のホテル支配人ポールに見せてしまったことを謝るナイーブさがありながら、謝りながら酒に誘う鈍感さも持ちあわせる人物。その善良ながら愚鈍でもある瞳は、まだ罪の意識を感じていて、開き直るまえの「ジョーカー」ということもできるかもしれない。

それにしても、どうしてこんな虐殺が起きてしまったのか。なにがフツ族とツチ族を対立させてしまったのか。映画の冒頭で、フツとツチの違いを尋ねるシーンがある。定義らしいものはあるのだが、外からの見た目にはわからない。それでも、それぞれが自分がどちらであるかを知っている。そんな状況を、妙なものを見るかのように見つめるホアキン・フェニックスらの白人ジャーナリスト...

けれども、少しググれば出てくるのだけど、フツとツチという人種的な区別は、土着的なものではなく、白人によるアフリカの植民地化の過程で、植え付けられてゆくものなのだ。

ルワンダを最初に支配したのはドイツ。第一次世界大戦でドイツが敗北すると、ベルギーが統治するようになる。この時期に、ベルギーの植民地官僚たちは住民をツチ、フツ、トゥワに分類し、「ハム系民族」とみなされたツチを重用して植民地統治に利用するようになる。

こうしてフツに分類された人々は、植民地支配に加担するツチへの不満を募らせてゆく。そしてやがて、この映画に描かれたように、民兵を組織、支配階級とみなされたフツの虐殺を始めたというわけだ。

問題は、どうしてツチが「ハム系民族」とみなされたと言うこと。ハムとは、聖書の創世記に出てくる人物の名前だが、その末裔がアフリカの地に流れてゆき、文明をもたらしたという仮説がある。イギリスのジョン・ハニング・スピーク(John Hanning Speke、1827 - 1864)によるものだとされる「ハム仮説」だ。

ベルギーに支配者たちは、このハム仮説にしたがって、「中程度の背丈とずんぐりした体系を持ち」「肌の色が比較的濃い者」をアフリカに土着の民(フツ族)とみなし、「痩せ型で鼻の高く長身な」「肌の色が比較的薄い者」を北方から渡来した「ハム系民族」(ツチ族)として、統治を手伝わせた。

だとすれば、ツチとフツの対立は、ヨーロッパによる植民地支配と、聖書の民がもっとも文明的に進んでいると考える人種思想を根に持っている。そして、それまで抑圧されてきたフツが憎しみを爆発させ、お高く止まっていたツチを蹂躙することになる。けれど、その虐殺の種をまいた当のヨーロッパ人の多くは、自分で種をまいたにもかかわらず、すっかり他人事、「ああ怖い」と口にしながらも、ただ遠目に眺めるだけだったというわけだ。

ホアキン・フェニックスが撮影に成功したニュース素材の虐殺映像を見たポールが、「よかった、これで助けに来てくれる」と言うと、ヨーロッパ的なメンタリティに通じるホアキンが悲しそうに答える。「連中はたぶん、怖いわねと言いながら、夕食を食べ続けるのさ」。その言葉に理解できないというポール。彼を演じたドン・チードルの、その善良そうな瞳がよい。それまで支えてきた白人たちの、ヨーロッパ文明というものの残酷を見ることがなかった瞳...

それにしてもだ。映画のなかで、いくつもの瞳が善良な輝きを放つ。同じくらいに、積りに積もった憎しみの炎を燃やす瞳、ただただ怯える瞳、すがるような瞳。そんなもろもろの瞳が、それぞれ空虚な眼差しの向こうに捉えたものがある。それは、まちがいなく、ぼくたちの傍にもある。

彼らもはじめそうだったように、ぼくらにもまだ見えていない。まだ見えていないけれど、気配は感じている。けれど、その悪夢の気配はあくまでも夢なのだろうと、とりあうことがない。夢でなくなってはじめて、悪夢だったことに気が付くのだ...

このよくできた娯楽映画は、ぼくらを二時間のくつろぎのなかに抱き込みながら、ゆっくりとその不気味な存在を感じさせてくれる。まるで「忘れるなよ、そいつはまた戻ってくるからな」とでも告げるかのように。
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