きょんちゃみ

ブルーバレンタインのきょんちゃみのレビュー・感想・評価

ブルーバレンタイン(2010年製作の映画)
4.5
【この映画についての私の個人的な考察】

小学校の高学年の段階からもう既に女の子は現実的になっていく。彼女たちは、この時もう既に「自分だけは特別な人間だ」などとは思っていない(→「私だって確実に死ぬわ」というセリフ)。彼女たちは大人になっていく。

それに対して、男はいつまでたっても精神的には成長しない。心はいつまでも少年のままなのである(→「フューチャールームラブホテル」という子供っぽい幻想が作中に出てくる)。男が自分から成長することは絶対にない。放っておいても男が成長すると思うのは大間違いである。①どこかで女に振られるなどして痛い目に会うか、②自分で自分の現状を意識するための大学教育などを受けないと、男が成長することは決してない。

男はいつまでも自分ならまだやれると思っている(→「俺は歳を取らないんだ」という劇中のセリフ)。たとえ何歳になっても、自分はまだ若いと心の底では思っているような生物が男である。彼はいつまでもロマンチックな空想家であり続けるだろう(→劇中でながれる「僕と君You and meだけの世界」という音楽を参照せよ)。そういう幼稚な男は子供達に人気がある。なぜなら、子供達とは精神年齢が同じだからだ。

そして、たちの悪いことに女は男のそういう幼稚さに惚れることがあるのだ。「彼は自分を変えてくれる。」「ここではないどこかに連れて行ってくれる」と思い込む。「引っ張って行ってくれる」ような気がするのである。

女は、男の非現実的で、夢想的なところに惹かれてしまうことがある。更に、非現実的で夢想的な人間は、寛容ではない場合がある。(ただし、この作中でのディーンがそうでなくてよかった。)

「付き合っている女を支配する男」はここで誕生する。映画女優が映画監督に惚れ、舞台女優が劇団の演出家に惚れる理由がこれである。ただ威張っていて、非寛容で強制するだけの男が、向上心がある男のように見えてくるのだ。こういう男に引っかかる女は哀れである。なぜなら、こういう男は基本的に寛容ではないので支配してくるからだ。(繰り返すが、この作中でのディーンがそうでなくてよかった。)

では、なぜこんなことが起きるのか。一般に、女の方が、自己実現の動機はモテるためではないが、男の自己実現は、究極的には、モテるためにやっているからだ。女に認められたいからえらい仕事につく、とかいう場合すらある。男は自分を認めてくれている人がほしいのだ。ヘーゲルがかつて言ったように、王は奴隷たちの承認がないと王でいられないほどに弱い。

とはいえ、この映画の中では、ディーンは逆であり、ディーンはあまりにも向上心のない男だった。そしてそこがシンディの気に障ったわけだが、向上心のない場合も、向上心のある場合も、もしくは向上心があるように見えて実は虚勢を張りたいだけだったとしても、とにかく現実問題として、男のロマン主義傾向は、実際手に負えない。これについては後述する。

女は、男のそういうところに惚れておきながら、結婚しても、男がそのままだと怒る。なぜなら、恋は一時のロマンであってもよいが、結婚が要求するのは愛であり、結婚とは生活のことだからだ。結婚とは生活であるから、結婚すると、女は男に、いい加減、現実的になって欲しいと思うようになる。これによって、男からすると問題が生じる。男にしてみれば、女は自分のそういう幼稚さに惚れたくせに、いざ生活となったら、自分の幼稚さを責めてくるわけだ。これでは話が違うので、夫婦喧嘩になる。

一方で、女は、向上心のある男(=自分を閉塞感のある現実世界ではないどこかへ連れて行ってくれる男)だと思って結婚したのに、いざ一緒に暮らしてみたら、実は非現実的な空想家(=ロマンチスト)でしかなかったことが分かってきてしまって、夫婦喧嘩になる。

このように、夫婦喧嘩をする理由が両性にちゃんと供給されることによって、夫婦喧嘩が実際に何度も発生する。この夫婦喧嘩の繰り返しが直接的な原因となって、離婚するのだ。

夫婦喧嘩の際、女は、男に本当のことを言ったら男が怒ると知っている。だから、「何がそんなにムカつくの?俺のどこにそんなにイライラしてるの?」と男が聞くと、「別に、どこでもないよ(=nothing)」と女は答える。女は本当のことではないことを言ってはぐらかし、別の根本的でない理由を男に伝える。しかし女は、実際には、なぜかイライラしている。男のどこにそんなにムカついているのか、それは、本当は、すべて(=everything)なのだ(nothing means everything)。

なんとなくムカつく、なんとなくイライラする、というのは、実は全体的にもうダメということである。

男は、女が教えてくれた根本的でない、嘘のほうの理由を、自分から取り除こうとして努力をするのだが、女は本当はそこにムカついているのではないということには気付けない。

こうして夫婦喧嘩はどんどんコジれていく。ディーンが最後のシーンで、「俺が俺の悪いところを直すから」といくら言っても、彼女の中ではもう全てが手遅れなのはそういうわけである。ちなみに、最初のシーンで、犬がいなくなり、「もはや決定的に大切なものが既に喪失している」というシーンでこの映画が始まるのはこのことを意味していると私は思う。

女にとって愛とは、「何かを一緒につくること、その何かとは、生活を、家を、家族を、人生を。」であり、そのために重要なのが「相手の気持ちを考えること」であると思われる。それに対して、男にとって恋愛とは、「僕と君だけの世界」なのである。そしてこの「僕と君だけの世界」の中に、結婚や生活の入り込む余地はない。現実と相手の気持ちから目を逸らして空想するのが男の根本傾向である。これが男のロマン主義傾向の手に負えなさである。この点は向上心がある支配者タイプの男であれ、向上心のないディーンタイプの男であれ、大差はない。

そして、「女は上書き保存。男は別名で保存」が恋愛の鉄則であると言われる。つまり、女は、別れた男はどうでもいいと思っていることが多い。もはや彼女にとって、彼らは他人である。女には、「別れても好きな人」など、基本的には、いるわけがない。

それに対して、男は、元彼女だったら、永遠に、電話すればまたセックスできる、などと思っている。別れた後でも、気分が凹んだり、大震災になったりすると、電話をかけてきたりしてしまうのが男である。一度でも付き合ったことのある女(=元彼女)は永遠に自分の彼女だと思っているのだ。

例えば、初恋の人の名前を、別の女との間に出来た子供の名前に付けたりする父親という現象が生じる理由がこれである(=別名で保存)。女は、「今付き合っている男が、今までの他の男たちより一番素晴らしく魅力的である」と思っていないと、そいつの子供など産めるわけがない。女は男たちを何人も同列に扱うということはありえない。女にとっては今の彼氏が常にベストである。

たとえ、そいつの前に20人以上の男たちと付き合っていようとも、今付き合っている男が一番であるに決まっている。ちなみにこの映画の劇中でシンディは自分の男性経験の人数は20人だと言っているが、それが無意味なセリフであるはずがない。

女は子を産みうる生物として、恋愛がおのが生に直結しているからだ。男はそうではない。男の恋愛は、種まきである。男という生物には、精子を一生のうちになるべくたくさんのところにばら蒔く行為がある程度プログラムされていると考えてよい。

だから、ある時点で、「失格だ」と女に判断されたら、男はもはや、女にとっては、精子工場としてしか見なされないだろう。それゆえ、離婚した場合、母親はなるべく父親に子供を会わせたくないのだ。彼はもう父親ではなく精子工場でしかないからである。別れた時点で、気持ちは切り替わっているからである(=上書き保存)。また、シンディがディーンに性的魅力をいっさい感じていないのもそれが理由だと思われる。女は冷める時は徹底的に冷めるのである。

この映画は、「恋は何か特別なことがなくても冷めるときは冷めるし、遅かれ早かれいずれは冷める。愛は冷めない。」ということが言いたい映画であると思う。

シンディは、旦那ディーンに収入が少ないことの一体何がそんなに嫌だったのだろうか。ディーンにはペンキ屋としての収入が一応はあって、必要以上に金は要らないはずだし、ディーンは家族にも優しい男ではあった。①他の女に夫の社会的地位を自慢してみたかったとか、②責任ある立場にいることのプレッシャーを、夫も責任ある立場になることによってわかってほしかった、などの理由が考えられるが、私が思うに、③シンディは恋しかしていなかった。愛を知らなかった。だから恋が冷めて愛だけが問題になるフェイズがやってくると、最初は魅力的に見えた男が、精子工場にしか見えなくなってしまった、というのが真相ではないだろうかと思う。この映画は、恋が冷めていく映画だとはいえるが、愛が冷めていく映画だとは言えないと思う。そこにかすかな希望を託したい。
きょんちゃみ

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