KengoTerazono

アメリカの影のKengoTerazonoのレビュー・感想・評価

アメリカの影(1959年製作の映画)
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セックスや恋愛なんてロマンチックでもなければ綺麗なものでもないということを、美しく表現している。ラブシーンの暴力性が凄まじい。男の手つきひとつひとつが、女性を所有する方向へと向いている。男性はスクリーン全体に顔が映されるような超クロースアップショットが多かった一方、女性のクロースアップはせいぜいバストショットより少し狭いくらいがほとんどだった。特にメインのリリシアに関しては、バストショットより狭いショットサイズはなかったように思える。女性をキャメラで捉えることへのためらいみたいなものがそこにある気がした。
キスを拒みながらも結局は男性の肩に寄りかかってしまう女性。急に男にキスし、性に奔放なのかと思いきや、誰よりも純情で、初めての体験でセックスの現実を知ってしまう女性。男性の喧嘩を必死に宥める女性。

黒人というマイノリティ性が唯一女の苦しみに歩み寄れるピースなのだろうか。だが、その黒人男性もかなり男性的で、白人の(無意識的)差別が関係するところ以外は男性の独占欲を発揮する。
人種差別も、女性への独占欲も無意識的なもので、登場人物はそれを認識できていない。気づいたとしても、そこから目を背けている(自身の差別意識に気づいた男も、「ぼくたちはみんな同じだ」と平気で黒人に言えてしまう)。

長い一続きのショットの中で、俳優のショットサイズがコロコロと変化するのが印象的。近づくにしろ、遠ざかるにしろ、臨界点に達したところでショットが切り替わる気がした。
黒人のミュージシャンが、ショーガールの紹介をするなんてごめんだと楽屋で駄々をこねるシーンが印象的。マネージャーがミュージシャンに説得するシークェンスショットでは、鏡を介してマネージャーと目が合い、まるで観客が諭されているかのよう。楽屋オチ的なギャグの練習をクローズアップであんなに長々と映していたのに、ジョークを披露する機会はついになかった。

芸術に対する示唆に富んでいた。芸術というもの、あるいはそう言われているものに対して、私は懐疑的(というより芸術とは何なのかがわからない)だから「芸術的」とか「アート」とか、あまり言わないようにしているが、この映画も(権力と結びついた)芸術に対する勘繰りがあったように思う。文学サロンで実存主義に対してあれやこれやと意見を述べる女と、適当に相槌を打つ男。ダンサーをしているという女が既婚者とわかれば適当に話を切り上げる男。芸術を語るという建前でセックスのことしか頭にない。
美術館で腕を組みながら美術品を批評し合うのではなく、それらを引き摺り下ろして笑うという、芸術をパロディ化する行為の方が伝統の文脈に置かれたお高い彫刻にお似合いな気さえしてくる。

俳優の即興的な演技と即興的なジャズの劇伴。カサヴェテスの即興的な演出は俳優に好き勝手やらせているわけではなく、俳優の役への理解を徹底させたのちに行われるものだ。だからこそ、役者の声ではなく、役の声になる。間延びしない即興になる。楽屋オチ的なギャグはあっても、楽屋オチの延長線的な演技は存在しない。即興でありながら物語世界内が尊重されている。
ショーガールの下手くそな歌は物語世界内の音であるということが、自身の芸術性を理解してもらえず、下衆な踊りと歌の司会をしなければいけない男の哀れさを強調する。
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