KengoTerazono

鶏の墳丘のKengoTerazonoのレビュー・感想・評価

鶏の墳丘(2021年製作の映画)
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CGIの逆張りによってCGI的な現代を皮肉っているように感じた。煙や水が随所に表現されている。CGIにおけるそれらは仮想空間へと観客を没入させるための有効な手段だ。なぜなら煙や水にリアリティを持たせることができれば、そこに空間がある(アニメのように平板なレイヤーが重なった世界ではない)ことを観客に信じ込ませることができるからだ。だが、この映画はそのようなシネマティズムに貫かれているわけではない。煙や水の粒子は粗く、この空間のフェイクさを際立たせている。またこの映画におけるキャメラワークは実に自由である。クレーンやドローンでもできないような移動撮影に、超ズームイン/アウトの多用。現実空間では絶対にできないと同時に、その空間へと我々は絡め取られる端緒となる点において、実にCGI的な表現だ。だが、この映画では、そのような端緒としてこれらの手段は用いられない。むしろありえない移動撮影はあたかもスマートフォンやタブレットの画面を指で操作しゲーム空間を転がしているかのような感覚を与え、超ズームイン/アウトは空間の縮尺が歪められることでその空間の虚構性が露呈する。これらの要素は通常の映画では失敗とされる。なぜなら実写と齟齬をきたすから。フルCGIの作品ですら、写真的なリアリズムにそぐわない要素は極力排除され、カートゥーン的なキャラクターをいかに写実的(写真的)に描くかがCGIの要とされる。映画の全体性を高め、スペクタクルで観客を圧倒すべくCGIは加工されるが、この行為は本当ならCGIに固有な表現であるはずのものを、あたかもそうではないもののようにする行為だ。『鶏の墳丘』はその加工を行わないことにより、CGIの固有性をスクリーンに映す。スペクタクルに奉仕するための技術を利用することで、逆にCGIの固有性を暴露している。

シー・チェンの社会に対する認識は共感する部分が多い。映画に出てくるフェティッシュな女性ロボットの顔はみんな同じようで、それはCGIのモジュール的な側面を上手く使用しているが、これは現実における人間やその人間たちが形成しているコミュニティ・文化・想像力もモジュールのように断片化しているということだ。社会が小さくて個人的な物語のピースで埋め尽くされ、プラスティックの既製品の中に私たちは生きている。あたかも知的なロボットかのように。だが、この世界から足を洗うことなどもはや不可能だろう。『鶏の墳丘』に出てくるロボットたちはひきつったように、まるで何かに引っ張られているかのように動いて/動かされている。分断された小さな世界で生気のない戦争を繰り広げている。この居心地の悪くて、でも手放せない世界は不可逆的なものだ。もはや大きな物語的な想像力は持てないし、それが失われたことをノスタルジックに、メロドラマティックにペシミスティックに嘆くことなんてできない。緩やかにモジュールの集まりであるCGIのロボットになっていくしかない。
フレームを入れ子のように利用していることも示唆的だと思った。いくつかの劇中劇がスマホのようなフレームの中で展開し、その中にフレームがまた出現して劇中劇が始まることもある。

CGIの自律性や自動性を利用している。バンクショットのようなもの(太陽を移動させるロボットのショットや、パステルカラーの街並みなど)もあれば、ループが使われているショットもある。貼り付けられたようなレイザー光線(光の質感にリアリズムを持ち出すのではなく、アニメ的なレイヤーの感覚に貫かれている)によってロボットが破壊される時の動きも、シミュレーション的な動きだ。随所に現れるGoogle翻訳的な日本語も同様だ。

また数ある戦争のシークェンスで、一貫して壊れるロボットたちの崩れ方に質量的な重さがない。発泡スチロールのブロックを崩したかのような軽さだ。だが、それとは反対に音はとても重い。音と映像のズレが至る所にみられ、おもしろかった。

フェティッシュな女性たちにみられる日本のアニメの引用も、モジュール的な世界の断片化という主題と噛み合っていてよかった。
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