KengoTerazono

修羅のKengoTerazonoのレビュー・感想・評価

修羅(1971年製作の映画)
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冒頭の鐘のシークェンスや夢のシークェンスが、話が展開するにつれどんどん紐解かれていく。鶴屋南北の原作は、話だけは知っているが、100両が巡り巡って帰ってくるという大筋のみ合っている。

コントラストの効いた画面に顔のクロースアップショット。光と影の明暗がくっきりとついているから、顔の表情は変わらないのに、登場人物の裏の顔が途端にあらわれる(例えば源五兵衛が芸者らの毒殺を想像しているシークェンス)。それがとても恐ろしい。暗闇からヌッと色白い顔が現れたりするのも不気味(例えば芸者の後景から源五兵衛が顔を出して芸者の胸元に手を入れるシークェンス)。ライトの存在感が凄まじかった。それは単にコントラストが効いているだけではなく、例えば俯瞰ショットの際、その照明はスポットライトのように役者たちを照らす(例えば源五兵衛が自室で芸者を抱くシークェンス)。情事がさあ始まろうとする時にフレーム内にある照明(提灯)が消えてしまうのも、逆に直前までの明るさが際立って、エロティックな印象を与える。
顔に段々とズームインしていく過程も、緊迫感が増していい。

源五兵衛が想像するifシークェンスと現実のシークェンスが交互にカッティングされている。完全にではなくともショットの構図も似ているから、想像通りにいかない源五兵衛の可笑しさと切実さが際立つ(例えばカッコよく100両を用意し芸者を貰い受けようとするシークェンスの直後に、侮辱を甘んじて聞き入れてしまう情けないシークェンス)。芸者の首に向かって淡々と100両を渡した時の覚悟を聞かされると、笑うに笑えぬ虚しさが込み上げてくる。

緊張と残酷さの狭間にユーモアを入れるから、ヒヤヒヤしながら笑ってしまう。首を抱きながら死にゆく仇の男とか、笑っていいのかわからないけど、笑っちゃう。

アトラクション的なミスマッチもよかった。メリエスの月にぶつかるロケットよりもくどく、振り返ったり見上げたりする動作がショットサイズやポジションを変えて繰り返される。ある種のギャグのようにも思えてしまう。
人を斬る時など、音が消えるのもよかった。
高速度撮影で斬られた人が血を撒き散らしながら倒れる様子はペキンパーの映画みたいだった(例えば源五兵衛を騙した屋敷の人間を殺すシークェンスの、特に障子を倒しながら落ちていった男とか)。
人の死に様が過剰で過激なのは、スペクタクルだが、その露悪さと対照的な静寂なショットもある(例えば合間に入るインタータイトルや鐘をつく坊主)。それが事の残酷さ、残忍さを高める。それは大量の死体と血飛沫だけでは表現できないものな気がする。
向かい合って会話する複数人をカットバックで表現するのではなく、あたかも横並びになっているかのような一続き(にみえる)ショットで表現しているのも印象的。観客のいる位置がブラーになって、平板さと3次元性が掻き乱される。
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