やまもとしょういち

落下の解剖学のやまもとしょういちのレビュー・感想・評価

落下の解剖学(2023年製作の映画)
3.8
人の脳は抽象的な思考を行うために「記憶の整理」をしているらしい。脳は物事をありのままに覚えているのではなく、一度抽象化し、整理して「記憶」となったものが保管されているのである、と。記憶は整理される過程で、無意識的に、あるいは積極的に意図されずに改ざんされることもある。しかし抽象的な思考ができなければ、人は虚構を信じ、そして共有することはできない。人類の文明がここまで発達したのは、人の脳が抽象的な思考を行うことができたからだ、と考えてもよいだろう。

こうやって記憶違い、記憶の無意識的な改ざんは人が生きていくうえである程度は仕方がないことだと理解していても、私はたまらなく不安な気持ちになる。「記憶」や体験をベースに人間の存在、アイデンティティが形作られているのだとしたら、自己改ざんはあまりに容易なことだ。では、本当の自分自身はどこにあるのだろうか。

……本作について、ただ私自身の主観に基づいた解釈を書き連ねることを許してほしい。

私は物語を通じてサンドラを見つめ続けて、たまらなく不安になった。それは彼女とその言動から上記した「人間の不確かさ」を感じさせられたからなのかもしれない。

サンドラはあえて不確かな存在、疑惑のある存在として描かれているように感じられる。彼女は「文学」という虚構を生み出すことを生業にしている人物であり、作中において、小説のなかで描かれた心理はサンドラ自身の本音なのではないかと邪推されるが、ストーリーを通じてサンドラが自己改ざんを行なっている可能性、もっと単純にどこか疑わしい印象は、客観的事実をもって明確に否定されることはない。ついでにいうと、なぜサンドラの息子が記憶違いをしていたのか、事実はどうであったのかも示されない。これらのことも私の不安を煽っているのかもしれない。

人の数だけ真実があるなどとよく言われるが、たったひとつしかない事実の周辺には無数の真実がある。主観、印象、解釈……そういったものを使い分けて人が物事を捉えている以上、それもまた仕方がないことだろう。しかしそのあまりの不確かさに愕然とさせられる。人は自分の目で見たものを、自らの言動によって客観的事実として立証する術を持たない。自らの「主観」を懸命に伝え、別の人間の証言を借りながら、「解釈」を他者に委ねる。サンドラはそうやって、「無実である」ということが承認されることになる。その不確かさたるや…。

死亡した夫・サミュエルは、当然ながら一貫して蚊帳の外だ。サンドラの主観、印象、解釈と、サミュエルのそれらが交わり合うことも、ぶつかり合うこともない。我々は証言として提示された録音を聞いて解釈するしかない。観客にのみ提示される夫婦喧嘩の映像も、スクリーンに映し出されたものが主観的なものなのか、客観的なものなのか曖昧で、映し出された映像が事実であったかは意図的に隠され、観客は各々で解釈する必要がある。

私はサミュエルに同情も共感もしないが、スクリーンに映し出されるサンドラはそもそもよくできた人物ではなさそうで、物語を通じて彼女にとって不利な情報が観客には数多く提供され続ける。その狙いは何だったのだろうか(レビューなどにあたってみると、作品を通じて社会における女性の権利、女性の成功をよく思わなかったり、先入観を持って見つめる保守的な人々の存在、あるいは男女のあいだにある不公正について炙り出すような意図があったのではと指摘されている)。

この映画の後味が「不確かさ」を感じさせ続けるのは、主観、印象、解釈の寄せ集めによって承認された「サンドラの無実」があまりに頼りないからであり、観客もその頼りなさの渦中に投げ込まれたままで終わるからだと思う。裁判を通じて誰も客観的な事実を提示できないどころか、映画を通じてさえ観客にはサンドラの無実は決定的には示されない。その理由は何だろうか。決定的に描かないことで表現したい何かがあったのだと私は思う。

サンドラは唯一の他者であり、かつ当事者である息子・ダニエルの証言によって「無実そうだ」という「印象」によって罪を免れた、というように私にはどうしても見えてしまう。「サンドラは無実だと思う」と一貫して信じて鑑賞し終えた観客の私ですらそうなのだから、ここは作品の意図するところでもあるのだろう(なお他のレビューでは本作には、こうした他者や社会から向けられる不確実さ、頼りなさ、不公正さに晒されながら、女性やセクシュアルマイノリティーの人々は生きているということを映し出す意図があったのではないかと指摘されている)。

シスジェンダー男性の私は本作を通じて、人の認識が印象や解釈のもとに成り立っている危うさそのものや、事実を見つめる目を曇らせる偏見が存在する社会で我々はどう生きることができるのか、ということを考えさせるような意図を受け取った。

私がそんな意図を汲み取ってしまうのは、AIという新たな発明によってもたらさらた「文明の進歩」によって、ディープフェイクの概念が生成され、そして蔓延し、悪意のある者によって歴史すらも改ざんされうる時代に突入しようとしていることも無関係でないだろう。作品の意図とはもしかしたらかなり離れたところで、私はそんな世界を生きる不安について思いを巡らせてしまった。

私にとっては本作の真意、あるいはテーマについて考えることはとても難しく、ひどく混乱させられている。