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チェイシング・エイミーのotomisanのレビュー・感想・評価

チェイシング・エイミー(1997年製作の映画)
4.2
 ひとめぼれなんだ、と言って押しかけて来る男がいる。何の脈絡もない通り魔がいきなり切り出してくる言葉の暴力には違いない。こんな手合いを追っ払うならレズだよと示してやりゃあ、たいがい悪態の二つ三つ吐いて失せやがる。
 それがホールデン以前の成り行きだったんだろう。「たこつぼ」なんてどんな悪口か知れないが、いつでもだれでもお構いなしな都合のいい女みたいにいわれてしまったが、半ばはそれに近い嗜好でもあったかも知れない。
 しかし、高校の卒業アルバムを始末してNYCに出てきて、しがらみも切り捨てた格好であっても、それまでの性生活は何の感慨も残さない事にも気が付く。要は遊ばれ女に過ぎなかった自分は、そのときは冒険家気取りでいい寄る男に玄人な素振りで迎合した事を否認しきれず、単に男好きな自分にも幻滅したのだ。
 しかし、こんなアレッサの逞しさなのか、あるいは本当の性の探求者、冒険精神の持ち主なのか、男に幻滅した分、同性に寄せる情がよい居心地の場所を開拓する手掛かりになることに気が付いたものらしい。このように性界を跋渉したアレッサが性界ならではのマイノリティ間のセクト主義、因循さ、独占、排他性、商売のいやらしさをよく弁えながら、マイノリティとして生きて、さらなるマイノリティ、アメコミ作家としても自分ネタで自活する細道を二足のマイノリティ草鞋で歩む事に対するホールデンの闖入はとんだはた迷惑に間違いない。
 ところが、ホールデンの持つオーソドックスな雰囲気がアメコミ作家に似つかわしくなくて、きっと結婚して「死が二人を分かつまで」を地でゆく夫になる事を彼は疑いもしないと感じたろう。だから、「たこつぼ」な自分を偽りたくもなる。

 彼らが70年に生まれたとしよう。全世界を二分する政治軍事力に対し市民の力は精彩を失い、頼れる生活規範が見つからないまま、いやでも大人になれと迫られる。この物語もまた、マイナーなアメコミ界の成長不全な感じの面々がたむろする中で主人公3人、死なない程度に暮らせる才能がどうやらこれまでの道程から導けた格好である。アレッサにおいては、こんにちまで後悔もレズな生活を偽る理由もないとは自分を元手に生きる者の自負が満ちているという事である。
 しかし、理想の男性ホールデンが出現し、始めてアレッサも臆する。いつもの手でレズを大っぴらに見せつけても意に介さぬホールデンであるが「たこつぼ」な自分を受け容れられるとは思えまい。だから、ホールデンには大妥協というべき、ホモ的に惚れている相棒を交えた全員参加の直接民主制の膝詰め肌寄せで問題を乗り切ろうという迷案には、勇んで無軌道を走った昨日までの虚しさをなぞるだけ、ただ悲しいばかりなわけだ。
 こんな男の出現もおそらく、アレッサには立派に作家の筆のすさびとなるだろう。一方、子どもじみた男二人のカネになるストリートヒーロー世界は相棒の「死」でパージされて、三十路目前、世紀末も目前、お蔭でやっと自分らの足2×2本で立つ覚悟も実感されるのだ。

 そして一年ぶりの相棒が目配せと手振りだけの遣り取りだけでも立派に生きてると分かる。同じフェア会場にいるアレッサにわだかまりなく接する事ができるかは知れないが、もう破局はないことをどこか確信して見送るのだ。相棒とはそんなものだろう。同時に一年のブランクでなにを培ったのかアレッサだけに示したい自分自身ではあるが敢えて世間に問う事でもう恋に目が眩んだ者ではない一介の生活者として自分は許されるだろうかと尋ねてみるのだ。
 不可解な一目惚れから発した事件で逸る心から事を荒立てた昔だったけれども、もうアレッサの道を阻んで自分に引き寄せるのではない、アレッサの道に添ってゆくありかたをどのように気付いたか語って聞かせ、それはアレッサの何を誘う事になるかを問う事でもある。あるいは死にも二人は分かたれることのない、かつてなかった交流の絵物語が紡がれる始まりなのかもしれない。
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