まりぃくりすてぃ

肉体と悪魔のまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

肉体と悪魔(1926年製作の映画)
4.5
最強サイレント映画の一つ。最美期のグレタ・ガルボを “演技する美女” として完璧に正しく焼きつけたフィルムだから。今さらだけど映画は、映える画、と書く。

いや、まず、女っ気ない冒頭の兵役兵舎シークエンスから面白さがキビキビしてるんですけど。主役オーラをてっきり出してた甘口金髪美青年ウルリッヒ(ラルス・ハンソン)と、渋め系レオ(ジョン・ギルバート)とで、スタートダッシュ。脇役たちも活きがよい。
そこに出現し、威力を残してしばらくは去ってるフェリシタス(グレタ・ガルボ)。話のバトンを子役たちが引き継いだ時間帯もまた嬉し!
そして、再登場してからのフェリシタスの充実ぶりは! これは極上の薄皮まんじゅう映画か。レオとのお近づき・おくっつきがもう甘美(辛美)! 皮だけでもおいしくおいしく行けそうだった(普通に張りのよい秀作の予感バッチリだった)のに、この贅沢な皮薄さは何!? 光! 煙草! キス! これでもかコレデモカッと中のあんこの妖しさ危なさが口内に溢れかえるよ。。。

「美しい(自分よりも美しい)」というそれだけの理由で私が尊敬しちゃえるただ一人の女性が、銀幕の中のグレタ・ガルボだ。他人の容姿なんてマジどうでもいいのに、ガルボにだけは私は抱かれてもいいとさえ想ったりする。性格なんて知らないけど。彼女の飼い猫になるのもいい。
子供の頃の私は、クレヨンとか握るとセーラームーンみたいな女の子ばかりをもちろん描いてたが、模倣をやめた十代頃からは、もっとリアルなドレス王妃を描けるようになった。いつもだいたい似た目鼻口。今思うと、すべてガルボ顔だった。私にとって「美しい顔」とは、映画や写真のグレタ・ガルボのお顔のことなのだ。
そして彼女は、自分の身をただレンズに預けてるわけじゃない。美しく作られつつ、きっちり自らを作ってる。その結果は────ホラー映画になってる! これはどういうこと!?! 彼女が出演すれば「強い映画」となりやすい、その最大の理由は、「グレタ・ガルボ=悪魔・妖怪・吸血鬼」だから。彼女は美しすぎるから。美しすぎるものは他者にとって必ず怖いから。
主題からして今回そうじゃないか。。。。
前半は、「人の心の美しさ」の追求主題みたいに思えた。「自分の心に正直であろうとすること」と「自分を抑えること」の葛藤を親しみやすく描いたものと。しかし、だんだんシッチャカメッチャカになってきた。良い意味でも悪い意味でも。
そう、ストーリー性とともに主題性が “微妙に高い” 本作において、彼女は、象徴的比喩的意味にとどまらず、実体的にも、悪魔として描かれてる。1920年代の男性目線偏重社会においてはそれ以外にあまり自分を咲かす選択肢がなくて彼女はそうしたんだろうけど、割り切って「悪魔役」に徹してる。半端な美女がやったらただの「悪女」「悪役」だ。ガルボがやりぬいたからこそ、悪魔が本当にそこに形を持った。本物の悪魔だよ。これ悪魔払いや吸血鬼退治映画だ、どう観たって。
決めつけちゃえば、グレタ・ガルボの出演作はほぼすべてが半ば自然にホラー映画色を持つんだと思う。「失礼ね」と彼女に私は叱られるか、「誇りにするわ。ありがと」と撫でてもらえるかどっちかかも。
教会のミサでの赤葡萄酒の舐めずり。いよいよもって、ガルボの吸血鬼宣言。

そしてそんな大柄なガルボに美しさで敵わない小柄なヘルター(ウルリッヒの妹。レオに片思いしつづけ)役のバーバラ・ケント。ちょっとは可愛いんだけど、美のムリムリな階級差はもう歴然。「Can you have this on your soul?」(あの二人があんなことになって、あなたは耐えられるの?/あなたはそれでも人間ですか? ←いずれもマリ訳)と噛みつくことになる脚本上も、女優対決としても、大人vs子供みたいにガルボにまったく歯が立たない。
ところが、いくら「意地悪をやめて」ってガルボのフェリシタスにお願いしても聞いてもらえず、「私は無力です……」のヘルターが、必死に声出して神にお祈りする。泣きながら、諦めず必死に。この泣き濡れるバーバラ・ケントのお祈り姿が、一瞬とか数秒とかじゃなく十数秒ぐらいにわたって、ガルボよりも美しく見えた!! 凄まじい大番狂わせだ! 世界一の美人女優に絶対勝てないはずの平凡ぎみな女優さんが、美しさで相手を凌駕してるシーンなんだから! 私も泣いたよ! そしてガルボも泣きだした! この時、悪魔の心が動いた。悪魔が悪魔であることをやめてくれた! 凄まじい映画だと思った!!! 奇蹟をこうして撮ることこそが映画なのかも!!!!

友情島でのラストへ。おそらく最終展開は、最善ではなかったと思う。改心むなしく吸血鬼は、雪原でたいへん偶発的に退治されて終わったから。退治された者への、鎮魂が一つ欲しかったな。
全体として、主役オーラを持ってたはずのハンソンのウルリッヒの出番が私の期待よりも少なかったことが、脚本末尾の非最善(次善としてのメデタシメデタシ)感につながっちゃったように思う。当時人気絶頂で本作でのガルボとの渡り合い(共演)から本当にガルボの恋人になったらしいギルバートは、マッチ~キスのところとかの過不足ないスムーズさをはじめ随所随所のキレと静かな男性美のキープぶりがほぼ満点だった。


あと、映画って、モノクロのサイレント時代に良作がほとんど出尽くしてる、のかもしれない。トーキーのカラー時代となって手法も主題も商売方法も百花繚乱が続いてるけれども、、本当のところ、映画の一番大切な要素(例えば、心を打つドラマとか、演技とか、素朴に演出とか。そして何よりも、美の頂点に立つ女優さん拝み)は、こういう古典で間に合っちゃうのかもね。
似たところで、モダンジャズは、創始者格の1940年代のチャーリー・パーカーのたった数年の最盛期に大事なことすべてがやり尽くされていて、のちのすべてのジャズメンは、パーカーのやり残したことを丁寧に拾って頑張ってみただけで、進化発展はない、ともいわれてる。マイルス・デイヴィスはそういう拾い屋さんの中ですごく偉かっただけ、と。
ビッグバンのあった宇宙だって、誕生の最初の一秒間で、重大なものはほぼすべて決まっちゃったらしい。そんな中で私たち人間は、無意味といえば無意味な小粒な生を、一人一人ただ丁寧に頑張っていく。
大傑作揃いにちがいない(今に残る)サイレント映画の数々から私たちがが吸収できる大切なことは、まだまだいろいろあるんだろう。。

[ピョ]