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隠し砦の三悪人のotomisanのレビュー・感想・評価

隠し砦の三悪人(1958年製作の映画)
4.0
 その、三悪人がかの秋月党の野郎どもなら山名勢は聖戦士とでもなるのか?
 なにしろ戦国時代だから、隣国秋月を打ち破る事の理非は訊ねようもないが、負けた秋月はもう史書を編む余地などない。だから三船以下三人も山名家文書では盗人とこき下ろされるだけだ。
 盗人と言えば、都の公家辺りからすれば武士なんぞ皆わが荘園を押収した盗人ばかり、となるだろう。悪人の悪党どもであるが武威を鳴らせば立派に守護の大名のと名乗り、将軍政権まで立てた挙句に国を治めきれず互いにかみつき合う始末、乱世となり果てる。こんな末法、世も末のどこに「悪人」でない人がいられるだろう?
 というわけで、人殺しも頓着無い侍が跋扈する一方で庶民も乱世に巻き込まれ、議会制民主主義に文民統制、ジェンダー論もへったくれもない。庶民同士相和さずはもちろん、ちっとも侍を尊敬しないので三悪人中、庶民代表の二人は弱小派閥ながら隙さえあれば閥内紛争で相手を出し抜こうと躍起になり、他方、侍代表の三船に向けては負け戦の大将なんぞ騙りやがってと唱和する。
 それでも秋月家再興の軍資金ひと山を友邦早川領に向けて密輸しようとなれば、欲と野望で三人四脚、足並みの乱れは三船の剛力と頓馬な庶民のヘタレっぷりで凌いでしまって、これはハッピーエンドというのか?

 半ばは笑って眺めているのだが、その目出度し目出度しというのがチクチクするわけである。二十一世紀ももうじき中葉の今、この下り坂が平安貴族の世の末と同じようなやがて世界戦国が再来しそうで、誰がヘタレ庶民を笑えよう、どこに三船の兄貴を求めよう?そしてどこに善人のあり様を尋ねたらいいだろう。
 いのちであれカネであれ、損しませんようにと念じてばかりの庶民と政略軍略に脇目もない三船、姫君が忠義面と嫌うその三船、血も涙もない態度の本義に姫の安泰ひとつを据えてくれる、姫にはその恩義が重すぎて耐えがたいほどの三船が「悪人」としての男をさらけ出すなら、かの姫君と彼女が助けた「使えない」女はその埒外の者たちとして戦国そのものから浮いたような存在感を示している。

 男の世界で啞を装った姫と唖のような女が身分の上でも両極端、態度においても男たちの埒外の自己犠牲とこんな世相の難儀な中、瀬戸際な逃避行やいのちを燃やす火祭りにと束の間を自由な感想の表明で肯定して見せる。こんな世の中を「よし」というのじゃない、この不自由に不浄、それでも「妾、生きてこれあり」というのである。
 買い戻された女が姫の恩義に応えるところは至って分かりやすく、対して、死出の旅先への土産話と生を喜ぶ姫の割り切りには男のあり様を跨ぎ越す、例えば草間彌生(1957渡米)、三岸節子(1954渡仏)のような新しい人間の姿が投影されているのだろう。それらが善とは言わないが、そのとき男らに欠けていた何かを補う者として際立っている。
 そんな姫君が、妹を人身御供に差し出した三船を忠義面と面罵する一方でその好敵手、山名の重臣田所には、そなたの主と申すは主君とするには不足も不足であろうよ、とも評する。そんな君主像もまたその時代の通念からかけ離れたものであろうとは想像に難くないが、監督の知った事ではなく、彼は同時代、1958年の人間に、よく見かける人間と対照的に稀に見る人物、こんなヤツが居てるか?と語りかけているのである。

 ずいぶん高飛車な娯楽映画だが、共に落ち延びてゆく「悪人」同士、地の底を潜り抜けて同盟早川領に達すればそこは別世界、身分を回復した者たちはまた殿上から地下の庶民を見下ろして笑ってよこす。その褒美が延べ板金一枚で人切り包丁でないのは破格なのかどうか。
 雨降って地固まるというが、お上がやっと落ち着いて庶民も平安するのか、その延べ板をどうやってきっちり分けるかなんてもういがみ合いもせずヤケに和やかに終わる事に侃侃諤諤な議会制はこの国には異質すぎる?と向けられたような落ち着かなさを覚える。
 映画館を出れば世間じゃ寄り合い所帯で「安定」の55年体制、「もう戦後じゃない」新時代だと錯覚したみんなは流血で終わらない悪人物語にホッとしたかもしれない。
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