ミーハー女子大生

ソーシャル・ネットワークのミーハー女子大生のネタバレレビュー・内容・結末

ソーシャル・ネットワーク(2010年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

見応え十分な重厚感!
それは、畳み掛けるようなスピード感と、一人の若きアントレプレナーに対する知的財産権と経営権をめぐるリアルな争いの、その裏事情とも言うべき物語を手際よく展開してみせる脚本と編集の出来栄えによるのだと思う。

主人公マークとナップスターの若き創始者ショーンが語り合う場面。
そこは大音響の鳴り響くディスコ。
ただ二人が語り合う場面を撮るのなら、場所は静かなオフィスや喫茶店などでも良かったのだ。
騒々しい音の洪水と若き血をせき立てるかのような激しいビート。
それは、無限の可能性を叫び合うように語り合う二人の心象にシンクロさせる妙、である。

しかし、乗り遅れた者こそ敗者だと言わんばかりの編集テクニックと、前へ前へと駆り立てるBGMに、ただ騙されるというわけではないところがこの映画の素晴らしいところ。
今どきの若者たちを、時には同世代の学生たち、時には審問をする大人たちの目線で構成中立に捕らえつつ、主人公マークの微妙な心の揺れと変化を描くことで、この物語の後に待つ彼の真の成長を予感させるかのような一種の希望の光を余韻として残す。

頭はいいが如何にもオタクなマーク。
理屈ばかりで相手を圧倒し、いつもふくれっ面でいるような男であれば、ガールフレンドにフラれてしまうのも当然だと、誰しもが思うであろう。
フラれた腹いせにブログに中傷を書き込み、女子学生たちの写真を競わせるようにネットに公開してしまうなど、これまた頂けない。
けれど、そんなオタクで陰湿な少年が、何故かニクめない。
まるで、自分の息子を見守っているかのような錯覚に陥ってしまう。

そもそも「フェイスブック」を立ち上げたのは、まっさらな白紙の上からではないことは確か。
だからこそ、そのアイデアを持ちかけたイケメン双子がアイデア盗用を訴えたのは当然の権利主張。
しかし、「アイデアの剽窃」と「あるアイデアをヒントとした創造」は、紙一重でありながら、重要なところで決定的に違う。

「ハーバード.edu」のブランドだけにこだわったあの兄弟に、全米から海を渡ってイギリスの大学にまで広がる波を引き起こすだけの創造力が果たしてあっただろうか。
「インスパイアされる」ということは、ひとつのきっかけに過ぎないのである。
学生倫理をに訴えた彼ら兄弟を不愉快だと一蹴した学長が本能的に彼らの弱点を嗅ぎ取っていたというところが、本業(?)のボート競走で歴史的な接戦のうえ敗退したというところが、敗者たる彼らを如何にも象徴的に描かれていて面白かった。

「フェイスブック」の共同創始者であったはずのエドゥアルドもしかり。
CFOの肩書きをふりかざすエドゥアルドのスポンサー探しの古典的な発想は、残念ながら新しい時代の発想とスピードに置いて行かれただけなのだ。

思いやりの心も持たず、ふくれっ面を崩さないまま猪突猛進にわが道を突き進むマーク。
そうした冷酷さが、かえって彼をとてつもない成功へと導く鍵となることの不条理さ。
なのに、彼をニクめないのは、マークの眼前に突如現れたショーンという人物をこの物語に配置したことが効いているからである。

「それこそまさに僕の思っていたこと!」と、膝を打ち激しく頷き喜ぶマークにとってショーンは崇拝すべき師のような存在。
一方で、そんなショーンとは違い、どんなに成功してもマークはその鉄面皮を崩さない。
ショーンとの対照性をもってマークの勝者たる所以を描いてみせるのである。

しかし、本当に素晴らしいのはそのことではなかった。
激しいスピードで疾走する物語の中で、ただ一点不変を保ち続けるマークの表情の裏に、一人の少年が金や名誉ではない真の価値に気付こうとし始めている予兆を、制作者はしっかりと浮かび上がらせていた。
それが、あのラストシーンなのだ。

この物語の後、ここに登場した少年たちはどんな大人になるのだろう。
巨富を得ることだけが成功ではない。
表面的には、「友情」とはおよそかけ離れた「裏切り」にまみれた物語でありながら、彼らがほろ苦いその青春時代を振り返り、いつの日かまた肩を組んで笑い合える時が来る、と思ってしまう。
ぼんやりと元カノへの友達登録をクリックし続けるマークの変わらぬ表情と、敗れ去った者たちのその後がテロップに流される、たったそれだけで、彼らのこの後の真の成長を信じる気にさせられてしまうのだ。

見た目のスピード感とは裏腹に、制作者の包み込むような優しさを感じさせられる。
遠くから若者たちを静かに見守っているような、そんな温かい映画なのである。

ストーリー 4
演出 4
音楽 4
印象 3
独創性 4
関心度 5
総合 4.0