オルキリア元ちきーた

ポーリーヌのオルキリア元ちきーたのレビュー・感想・評価

ポーリーヌ(2001年製作の映画)
3.6
ポーリーヌ
原題 Pauline & Paulette
製作年 2001年
製作国 ベルギー フランス オランダ
78分

ポーリーヌは花を愛し妹のポレットを愛する知的障害を持つ老女。
4人姉妹の次女で、姉の長女マルタと暮らしている。
しかしポーリーヌの心はいつも妹の三女ポレットの元に。
ポレットは地元のオペラの主演であり、街のオシャレ番長の店主でありポーリーヌの憧れの女性であり続ける。
しかし三女ポレットは姉の次女ポーリーヌの存在をうざいと感じている。
どれだけ自分を慕ってくれていても「所詮は障害者」なのだ。

そんな折、ポーリーヌを介護していた長女マルタが急死してしまう。

三女ポレットが長女マルタの葬儀の手配や後始末に終われる時に末妹の四女セシールがやってくる。
セシールは長女の遺産の使い道は考えてはいても、姉であるポーリーヌの世話は三女ポレットがしてくれるものだと思い込んでいる。
自分には自分の生活があり、フランス人の恋人との「今」が一番大事なのだ。
「今」が大事なのは三女ポレットも同じなのだが、その自分たちの生活の中に「ポーリーヌ」という「姉」の居場所は想定されていない。
姉の障害者施設への入所を望む妹たちだが、自分が「言い出しっぺ」にはなりたくない。遺産の配分もそれにより随分変わってしまうからだ。

三女も四女も姉であるポーリーヌを持て余してしまうのだが・・・

四姉妹版「レインマン」な話。

トムクルーズとダスティンホフマンの「レインマン」では
弟であるチャーリーが障害のある兄のレイモンド(ダスティンホフマン)を
色々な出来事の顛末として兄を引き取ろうとするが
結局、兄のレイモンドの「居場所」は福祉施設である、という結末になっている。
弟の人生は弟のものであり、兄のそれもまた同じである、というアメリカの「一つの答え」であるのだろう。

しかしこの作品では
冒頭でいきなり死んでしまう長女マルタといい、その後ポーリーヌの行動に振り回される三女・四女といい
自分の人生を自分で切り開き生活していく所に、ポーリーヌという「姉の存在」は
まるで厄介者のように登場してくる。

福祉施設に収容されても、恋い焦がれる妹ポレットのために
妹の好きな花をメッセージカードに遇らうポーリーヌ。
その姉の作ったカードを隱遁先で知り合った知人に披露したくても
そんなことを誰も望んでいないことを知って愕然とするポレット。

自分が世界の中心でなくなった時に
やっと「世界の中心じゃない人間の存在」に気づける。

個人の人生の「花」である時間の短さと
その「花ではないその人そのもの」までも
ずっと、まるっと
いいところも悪いところも関係なく愛し続けてくれる存在の尊さ。

それはかつて
ハンデを持ったポーリーヌが
母や姉や家族からずっと受け続けた「愛情」が育んだ
純粋な「存在そのものが愛おしい」という気持ちを
そのままで持ち続けているからこその行動なのだろう。

人は世間の波に揉まれながら生きる内に
そんな「そこにいるだけで愛おしい」という感情さえ擦り減らしてしまう。

人間は特技や才能による「値踏み」などされなくとも
そこに存在する「権利」を持っている、というのが
現代の基本的人権の思想だ。

「レインマン」のレイモンドのような「特殊能力」など無くても
ポーリーヌという存在は、存在する「権利」を持っている。

そうでなければ、あの相模原の施設を襲ったあの犯人は
ポーリーヌの妹たち・・・すなわち「健常者の望み」を実行したに過ぎなくなってしまう。
世間の望みとは、あの殺人鬼と同じ土俵にいるのかどうか?

知的障害はあれど「愛しい妹」をただひたすら慕い続けるポーリーヌ と
健常者ではあるが「そうでない者」を受け入れられない人たち

そのどちらが、果たして「正しい」と言えるのだろう?

また
それとは裏腹に
自分の人生は
たとえ兄弟であったとしても
侵して良いという権利は無い、というのもある。

ポレットやセシール、そして亡くなった長女マルタの人生も
姉妹であるポーリーヌによって掻き回されることが正しいとは言えない。
それは、相模原の施設に収容された利用者の親にも言える事でもあるのだ。
だからと言って、ポーリーヌのような人達が持つ権利を奪えるのか?というのは
それは明確にNOでもある。


まだ、この世の中の人間は
その「権利」と「感情」の狭間で揺れているし
きっと永遠に答えは出ないのかも知れない。