けんたろう

映画に愛をこめて アメリカの夜のけんたろうのレビュー・感想・評価

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セックスばっかしてる奴らのおはなし。


成るほど撮影の裏側を見れば、其れは偽りに見ゆることばかりであらう。然しながら、彼れらの真実を描く為めには、嘘たる様々な技巧が必要なんである。事実を偽ることで真実を描く。人生を描く。愛を描く。本作には、其んな表現への肯定が在つたやう思ふ。
まあ「此んなの偽りぢやないか!」といふ提起自体ナンセンスとは思ふが、然し若しかすると其れは、凡ゆる表現のなかで、唯一現実の人間及び物体を使用し且つ動く像で視覚に訴へかくる表現である、即ち目に見えるリアリテイ(むろん其んなのは目糞のやうなものであるが)が最も高い「映画」(と、個人的には思ふ)の宿命なのかも知れない。

其んな本作に於いて、印象深かつたのはお子ちやまたるアルフオンスの問ひ「女は魔物か」への答へである。成るほど決して天使などではあるまい。然しながら悪魔といふわけでもない。詰まりは人間なんである。お子ちやまのアルフオンスは(告白すれば私しも)何うしても掛けてくれた優しさに甘えて彼女らを信望してしまふ。其れが故に、彼女らの自由な振舞ひに対しては「裏切られた」「冷酷だ」「悪魔だ」などと感じてしまふんである。然し客観的に見れば、彼女らだつて人間であり、其々が慾望を抱へて生を営んでゐることが判る。「女が魔物」に感ずるのは、屹度主観的な視点から抜け出せないが故のものなんであらう。
何んだか私し、ゴダアルは主観的世界を表現せんとした純粋なる芸術家であるのに対し、トリユフオは己れを客観的に捉へて表さんとしたエンタアテイナアであるやう感ず。そして其の御両人のことを、何方も好く。

映画撮影の舞台裏に於けるトラブルを愉快に見せつゝ、凡ゆる監督や作品への愛を交へながら、キヤストやスタッフの猥雑なる──そして迚も可笑しい──群像劇を展開した本作。
其んなゝか、トリユフオ自身が演じたフエラン監督の、映画に対する愛と苦悩だけは孤独であつた。各方面と絶え間なくコミユニケエシヨンを取つてゐながら唯一孤立してゐるキヤラクタアとして描かれてゐたのには、なにか訳が有つたのだらうか。単純に此れも亦た、彼れの姿を投影したゞけだつたのだらうか。
まあよく判らぬが、兎に角も非常に楽しい一作であつた。