塚本

ブルジョワジーの秘かな愉しみの塚本のレビュー・感想・評価

4.0
1985年の夏、ぴあフィルムフェスティバルでルイスブニュエル特集が組まれたことがあった。四方犬彦によると全32作品のうち29本が上映されたとあるが、俺の記憶では晩年のフランス時代の作品しか上映されていない(スペイン時代とメキシコ亡命時代の作品は大阪では上映されなかったのか)。
足繁く、北浜の三越劇場に通ってブニュエルの作品に触れられたことは、俺にとってはひとつの事件だった(もう一つの事件はこの年、タイガースが優勝したことだ)。

約30年ぶりにブニュエルの「ブルジョアジーの秘かな愉しみ」を観た。
この作品は「遺言三部作」のひとつで彼にとっては、最晩年の作品である。
ストーリーはあって無いようなもので、男女三組のブルジョアジー(今で言うセレブか?)が、どうしても飯にありつけない、という、不条理劇である。ブニュエルは、この「どうすても~で来ない」というバリエーションが余程好きなのか、「皆殺しの天使」では、あるパーティー会場から出たいのに何故か出れない、という状況を、「欲望のあいまいな対象」ではセックスしたいのにどうしても出来ないという、状況をブラックな笑いでもって描いてきた。
そしてそのテーマは、そういう状況に置かれたブルジョアジーをせせら笑うという悪戯心の何者でもない。
普段の取り澄ましたブルジョアジーという欺瞞に満ちた仮面を、剥ぎ取ることが最大の目的なのだ。
そこにはヴィスコンティの描くようなディープな頽廃主義は存在しない。
あくまでも、「おちょくる」というスタンスなのだ。


……上流階級の人々にとって社交は、仕事そのもの。ドレスアップをして午餐、晩餐と招いたり招かれたりの日常。ところがミランダ国(南米にあるらしい仮想の国)大使とその友人夫婦たち、総勢6名は会食をしようとテーブルを囲むたびになにかと邪魔が入り、結局食事にありつけない。そのシーンが何度も反復される。最初は約束の日取りを間違え、レストランに入れば店主が急死しており裏方では弔われていて食欲をなくす。、次はホスト夫妻はセックスの途中で、お客を放っておいたりと、ここら辺あたりは極普通のスケッチとして描かれる。
 
しかしブルジョワジーの奥様がた三人がカフェでお茶もコーヒーも切らせておりますと言われるあたりから、映画は妙な方向に行ってしまう。

 カフェにいた軍人が、楽しい団欒の気分を吹き飛ばすような身の上話を始める。青白い幽霊と血まみれの死者が登場し青年はその後も死者と交流した話を聞かせ、その頃から食事を妨げる事態がより大がかりな不条理なものにに変わっていく。突然に軍隊が闖入するは警官たちが踏み込むなど。と同時にブルジョワジーたちの見る夢のシーンがひんぱんに入れ小細工のように絡んでくる。食堂の壁が突然崩れ観客の見つめる舞台に変わってブーイングされたり、屈強なテロリストの一団が彼等を襲撃し、ブルジョアたちは一瞬のうちに射殺されたり…
 後半はどこまでが夢でどこまでが現実なのか、混沌としてわからない。

ブニュエルの映画を観るときに陥りがちな危険は分析・解釈しようと試みることだ。
ここでは夢も現実も等価に扱われており、ビジュアルとして喚起されるものだけをそのまま受け入れればいいと思う。
随所に挿入される、彼等の、麦畑を所在なさげに彷徨するシーンもそのままうけとればいい。退屈で無方向でアンニュイな彼等の吐息が聞こえてくるはずだ。
塚本

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