塚本

バーニング 劇場版の塚本のレビュー・感想・評価

バーニング 劇場版(2018年製作の映画)
3.0

この作品の凄いところは、現在の韓国が抱えてる社会的な課題と、もっと普遍的な…現代を生きる我々人間についての言及を同時に果たし、描いているという点にあると思います。

ストーリーラインだけを見てみれば、ヘミは何故消えたのか?というミステリとして捉えられます。
ただこれはミステリではありません。
村上春樹の小説に於いても語り口はあくまで純文学のそれです。


しかしミステリではないものの、イ・チャンドン監督はヘミの消失と彼女を取り巻く環境を緻密に描くことによって、今現在韓国で起きているものを炙り出していきます。

韓国は2008年に家族制度が施行されるまで、戸主制度でした。
戸主制度は、 明治維新後の旧民法下において天皇を国の父とするイデオロギー の維持と強化のために制定されましたが,それと同じように朝鮮においても,朝鮮国民の皇民化政策として,その最小単位の家族の中で家族は戸主に絶対的な服従をするという家制度の仕組みを,天皇に対する 国民の服従になぞらえた国家による国民の支配形態のモデルとして,日本と同様の理由から,円滑な植民地支配と日本化のために導入したんです。

1945年の植民地解放後、当の日本は戸主制度を廃止して戸籍制度を導入しましたが、1960年に施行された韓国民法では、戸主制度が朝鮮半島古来の慣習と錯覚されたまま制定されちゃったんです。

戸主は現代の日本でいうところの世帯主に当たりますが、世帯主が戸籍の目次や索引的な意味しか持たないのに対して、戸主は「戸主権」という家族に対する法律に基づく権利を持っているんです。
戸主制度は,男子優先の男系血統主義を法定することで,優先的に戸主を承継することができる男子を重要視する社会的な男児選好思想につながり、家を継ぐことができる男子を生まなければならないという風潮と圧力を生み,妊娠中に胎児が女子だとわかると堕胎をする 女児堕胎問題をはじめ、女性を「代を継ぐことができる息子を生む道具」のように扱うなど,女性の身体への無配慮やアイデンティティーの侵害といった性差別の原因になっていったんです。

結果、女性の価値(地位)は不当に扱われ、就職、賃金においても差別されることとなりました。
自立が許されない環境の中で、女性が生きていくには、自分を養ってくれるだけの甲斐性があると見込んだ男に嫁ぐことしかありません。

韓国の女性の美容整形手術が多いのは自分の見栄えを良くして、そういう相手に見初められるためなんです。
外見を美しく装い、維持していくためには継続的に少なくない費用がかかります。
そこで女性たちはカード・ローンという蟻地獄にはまっていくんです。
ローンを返済出来なくなった女性たちの多くは売春をして返済金を稼いでいきますが、中には人身売買で海外に売られていく女性も少なからずいるんです。

そう…「バーニング」でのヘミのようにある日突然消えてしまうんです。

…一方で男性はと言えば「バーニング」の劇中、テレビのニュースが伝えていたように、失業率は壊滅的な状況です。
2008年、韓国政府は国内の経済成長を狙って、アメリカとの間に米韓自由貿易協定(FTA)を締結します。
これは、大雑把に言えばアメリカの農畜産物を輸入する代わりに、工業製品を輸出し易くする、といった内容です。
この条約によって韓国の農業は大打撃を喰らい、地方都市は過疎化が進み工業地域への一極集中が進みます。
初めのうちはバブルに沸いて皆んなご機嫌です。
しかしそれも束の間、自由競争の原理により富は企業が独占し労働者は安い賃金で雇われ格差社会が生まれていきます。

「バーニング」でのジョンスは高学歴にも関わらず、ソウルの量販店でアルバイトをしております。
彼が住むのはソウルから北へ、車で30分程のパジュ。
パジュは板門店に隣接する過疎化した村です。
誰もいない田舎ののどかな風景に北朝鮮からのプロパガンダ放送が響き渡るところは何とも不穏です。
彼は代々引き継いだ畜産~牛が一頭しかいない~にこだわっております。
彼の父親は役人と揉めて刃傷事件を起こし、裁判中です。

ここのプロットは村上春樹じゃなく彼が元々題名を採った、ウィリアム・フォークナーの、元祖・「納屋を焼く」からの引用なんです。

フォークナーの「納屋を焼く」は、南北戦争が終わった南部の小作人一家の話で、雇い主の地主に理不尽とも言える反抗心…というか単にイチャモンをつけて地主の納屋に火をつけては町を追い出され、引っ越しを繰り返している厄介な“父”を、少年の視点から描いた短編です(小説は父親の裁判から始まります)。
この短編では、少年は最後に己の中に在る「良心」に基づいて、強大な家父長たる父の呪縛の軛を断ち切り、ひとり森へ入って行くところで物語は終わります。

ジョンスも映画のラストで夜の暗い道へと進んで行きます。

…ところで、「ベン」とは一体何者なんでしょうか。

皮相的には、「ビニールハウス」と称して自分と付き合った女性を消して(殺して)いる、ギャツビー的なサイコ野郎…ってとこです。
しかし、この映画は「純文学」で、そんな卑近な話じゃありません。

ベンがビニールハウスを焼くことについて語ります。
『(焼くべきビニールハウスについて)世の中にはいっぱいのビニールハウスがあって、それらがみんな僕に焼かれるのを待っているような気がするんです。…僕は判断なんかしません。運命を受け取るだけです。雨と同じですよ。雨が降る。川が溢れる。何かが押し戻される。雨が判断していますか?いいですか、僕は同時存在なんです。つまり僕がここにいて、僕があそこにいる。僕は東京にいて、僕は同時にチュニスにいる』

そして彼はいいます。

『メタファーなんです』

彼は「概念」「時代」「社会」「経済」「運命」のメタファーなんです。
だからどこでも同時に存在する。。
イ・チャンドン監督はインタビューで「この作品は、今の韓国に於ける若者の怒りを描いている」…と語っています。
屍のように横たわるビニールハウスは、滅び行く農業の象徴であると共に、経済的に破綻して行き場を失ったヘミの象徴でもあるんですね。

そしてヘミは「韓国の歴史」「韓国の時代・経済」によって消されてしまいます。

そしてジョンスは、そんな「韓国の概念」の“象徴”であるベンに怒りを爆発させて何度も何度もナイフを突き刺し、殺してしまいます。

しかしこれは韓国だけの問題でしょうか?
世界はグローバル化への道を着実に進んで行き自由主義の名の下、どの国に於いても貧富の格差は広がるばかりです。

ヘミはアフリカで覚えた「リトル・ハンガーとグレート・ハンガー」のダンスを披露します。
グレート・ハンガー(大いなる飢え)は所謂、自己実現です。
対してリトル・ハンガー(小さな飢え)とはもっとプリミティブな生理的欲求です。
我々現代人は物質的、即物的なリトル・ハンガーを満たそうとする者たちです。
それはクレジットカード、美容整形、インターネット、金融取引…全てが実感を失った幻です。
幻は受け入れるのに、隣の住人の顔は知らない。
(農業のような)大地に根差したもの、ぬくもりの手ごたえがある絆などは非可逆的にスポイルされていってる。
そしてそれを象徴(メタファー)しているのも、ベンなんです。

劇中、ジョンスが教会や民族博物館へ訪れるシーンが映し出されます。
これは彼が己の寄って立つべき場所、グレート・ハンガーを求めようとさすらう行為なんだと思います。

….文在寅大統領をはじめ、韓国の人々が日本による朝鮮植民地時代に固執するヒントが、ここに隠されているんじゃないでしょうか。
塚本

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