塚本

トイ・ストーリー3の塚本のレビュー・感想・評価

トイ・ストーリー3(2010年製作の映画)
3.8
ピクサーの造る作品には「如何に生きるか」、というメッセージがいつも提示されている。

それは今までの生き方が、ある、外的、或いは内的な゛働きかけ”を受けて、それまで生きてきた価値概念の息詰まりを、やはりそれまで無意識内に押しやっていた相対的な価値を意識に立ち上げ、統合し、新しい自我の確立を目指す、自己実現のドラマである。

トイストーリー・シリーズは『おもちゃとは何か?』というアイディンティティに関わる問いをおもちゃ自身の観点から真摯に追究していくことで『人間とは何か?』という実存を問う哲学の普遍のテーマを、人間の誕生~幼年期~壮年期~老年期という…意識の誕生から各ジェネレーションにおいて、変革を迫られる『時期』を見事な脚本で描いて見せている。

Ⅰでは誕生して未分化なままの精神が現実に対しての自分という、自我の萌芽をバズがおもちゃとして、゙誕生”するエピソードで描いている。
そしてその自我が…つまりおもちゃとは実存として斯くあるべき、という問いに答えをだすべく、周りとのコミットメントの過程を経て確立していく。

Ⅱでは、やがて子供たちがおもちゃで遊ぶ事を卒業した時…おもちゃのおもちゃたる唯一の存在理由である、遊び相手としての属性を失った時、そのあと彼らはそれに代わる新たな価値を自己の内面から見つけることができるのか?
というピークを過ぎた人生の折り返し地点での苦悩と、自己との対話…そして自らが導きだすその果ての再生を描いている。

そして、Ⅲ。

ここでは、ウディやバズを初め、アンディが少年期を通してずっと彼の遊び相手だったおもちゃ達の精神の軌跡の総轄…
…そう、彼らおもちゃ達がその全存在を賭けて成し遂げた偉大な『仕事』をおもちゃ達が深く静かに認識し、それを誇りとして新たに自我に統合していく最後のドラマだ。

…アンディは少年時代、何故これらのおもちゃ達を、人一倍の愛情をもって大切に扱っていたのだろう?

彼はその成長の過程において、普遍的無意識内の、相対する概念や情感をこれらおもちゃ達に投影(ロールプレイ)することによって、自分の心の箱庭の中に適切に布置していったのだろう。

正義と悪、母なるもの父なるものといった無意識内の情動、そして「理不尽なるもの」といった高度な心理のアプローチが必要な闇の概念(←豚の[i:250]貯金箱、ポーク・チョップに、その役割を充てているのが、興味深い。)までもアンディはこれら依代から得たイメージを媒介にして抽象化していったのだ。
そうやってイメージのたましいを吹き込まれたアンディの偶像達は、アンディ自身の神話を形成していくのだ。
俺が、Ⅲでなるほどと思ったのは、自我が父なるもの、母なるものの庇護から自立する際の、『英雄神話』のモチーフ~龍などの怪物をやっつけて、姫を助ける~、に欠かさずその役割を付与されていたプリンセスを擬した人形のおもちゃが、居なくなっていた点だ。
これは彼の『英雄神話』が内的なものとして達成され、外的なものへと移行していったことを
暗示しているのではないだろうか?

これらのことは、アンディの豊かな感受性があって初めて成しうることができるのではあるが、もうひとつの見方も成り立つのではないだろうか。

おもちゃ達がアンディの自我の確立に深く寄与したと…

おもちゃ達は、優しくて信念を持った青年の旅立つ背中に、誇りに裏付けられた寂しさをもって、さよなら、と言う。


俺の掛けてたゴーグルのような3Dの眼鏡の下に涙が溜まっていたので子供には見られなくて済んだ。
塚本

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