クロ

機械じかけのピアノのための未完成の戯曲のクロのレビュー・感想・評価

4.3
チェーホフの戯曲「プラトーノフ」を原作とした監督の初期の作品である。おそらく1861年の農奴解放が行われる少し前のある夏の日、ロシアの片田舎にある将軍の未亡人アンナの邸宅で、将軍の先妻の息子セルゲイと妻ソフィアの結婚祝いが開かれる。退役大佐トリレツキー、息子の医者ニコライ、アンナに思いを寄せる労働者階級あがりのブルジョアのゲラシムらが他愛のないお喋りに興じている。そこに地主のプラトーノフとその妻でニコライの妹でもあるサーシャが訪れる。久しぶりの再会を喜ぶ面々。しかし、7年前恋人同士であったプラトーノフとソフィアはそこで鉢合わせする。プラトーノフはその場ではおどけて見せるが、恋に身をやつし希望に燃えていた才気溢れる若き日と小学校教師の身に甘んじる今の我が身の落差に思いは沈んでゆく。

時代は貴族階級の黄昏にさしかかっている。プラトーノフも体裁は地主であるが息子に託す資産すら覚束ない始末。晩餐において今や彼らの債権者となったゲラシムが言う「ここにあるすべて、屋敷も、食事も、ランプの燃料すら、私の金で買ったものだ。あなたたちが生きていられるのは私のおかげなのだ」と。プラトーノフはソフィアに変わらぬ愛を告げるが、最早失われた時間も愛も富も取り戻せないことを悟り自死を決意する。

劇では次第に彼らの暮らしが幻想であることが明かされてゆく。それでも彼らは贅沢な宴に興じスノッブな会話に明け暮れる。アンナが披露した高価な機械仕掛けのピアノは滑稽をこえて哀れでさえある。けれど私はどこかで彼らの軽さを憎めない。繁栄や富は川の流れや天気のようなもので、長い目で見れば人の力ではどうにもならない。富もうが貧しかろうが人は置かれた状況の中で愉しみを見い出す、そこに違いはないのだから。

冒頭でアンナの邸宅をカメラが三度同じ位置からとらえる。一寸判然としないのだが、一度目は廃墟に見え、時間を遡り、三度目の整然とした佇まいを捉えたところで物語の始まりに繋がるように見える。つまり、ここに集う人々もいつか泡のように消えてゆくことが予め定められているのだ。人々が消えた後、そこには冬は凍てつき夏には緑溢れるロシアの大地が残る。プラトーノフは仕事も恋もさんざんだったが最後にサーシャという救いが残った、その記憶とともに。

ロシアの緑豊かな大地はとても美しく、何故か懐かしくもある。いつか訪ねてみたい。

比較的さらりとした印象ではあるが音楽は、タルコフスキーの「鏡」、「ソラリス」、「ストーカー」を手がけたアルテミエフが担当している。
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