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イリュージョニストのninjiroのレビュー・感想・評価

イリュージョニスト(2010年製作の映画)
4.2
伯父さんにさよならを言ってなかった。

主人公がユロ伯父さんではなくタチの本名タチシェフ氏であることの意味は、ここで描かれる世界が生身のタチが例えば映画を撮らなかった別の並行世界とでも言うような、本作が彼の他の作品と比べて私的感傷を含んだ内省的なものであることを宣言しているとも思える。
それはそのまま本来4本目の長編作品となるはずだったこの脚本がタチの手によって撮られなかった所以でもあるだろう。

シルヴァン・ショメによって再現される「ぼくの伯父さん」と「プレイタイム」の間にあった絶頂期のタチの心象風景。それはショメの暖かなタッチの筆によりレタッチされてはいるものの、霧雨煙るエジンバラの陰鬱な風景と同じく隠しようの無い冷え冷えとした諦観が滲み、時代に取り残されて朽ちて行く者への優しいレクイエムのように深く心に響く。
また、タチ本人にとってもテレビに代表される新時代の到来と共に台頭してくる新しい娯楽に押し出されて去らんとする1959年当時の古い娯楽の王様・映画への哀惜の念と、無邪気にして移り気な消費者である我々への皮肉を含んだ挨拶のようにも思える。

現実でも最後に決してライムライトに送られた訳では無かったタチの映画人生をタチ自身は予見し、ショメはまたそれを振り返ってみせる。
中途、劇場に踏み入れたタチシェフが「ぼくの伯父さん」が上映されるスクリーンでタチ扮するユロ伯父さんとにらみ合うシーンでクロスオーバーする二つの人生。
映画という夢、娯楽という悪魔。
美しかった奇跡がいつか錆つき無様なペテンとなるように、どんな物も時代の波には抗えない。
それを囲む無垢で屈託のない笑顔もいつか消費社会に呑み込まれる。
それは繰り返される世の理り。決して悲しい事ではない。何故ならそれと分かっていてジャック・タチは映画を撮り続け、困難な人生を選び続けたのだから。

映画も手品も人生も、決して綺麗事ばかりでは無い。初めからお手軽な魔法使いなんて居ない。
華麗に見えるその表舞台の裏では誰もが無様に足掻き、堪え難き苦渋に耐え、血の涙を流す。
そうして創り上げられたものは時に人の心を捉え永遠に解けない魔法を掛ける。

例えその身は朽ちても、真摯な魂は時代を超える。
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