円柱野郎

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君にの円柱野郎のネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

エヴァンゲリオン劇場版の本編であり、TV版25、26話の焼き直し。

主人公の手淫から始まるというとんでもない作品。
ファンとしては、曖昧だったTV版の決着をこの映画に求めているわけですが、結末の理解の為には非常に受け手へ負担を強いる作品かもしれない。
というか、画面に映し出される結末は、あくまで“答えらしきもの”であって“答えそのもの”ではない。
観る人が10人いれば10人思うことが違うかもしれない。
少なくとも、自分も観るたびに感じ方が変わってきたし、初見だった高校時代には「Air」と「まごころを、君に」の落差に戸惑うばかりだった。
けれど、今では庵野秀明の破滅的な気分を表現した私小説と受け取っている。

「Air」はロボットアニメとして観ても素直に受け取れる。
なぜそこまでアスカをメチャクチャにする必要があったのかは理解に苦しむけれど、仲間の危機にも駆けつけられない(それすら拒否する)シンジの絶望感を引き出すにはこれ以上ない仕掛けか。
何せ手淫のオカズ…といえば聞こえは悪いが、実際そうであった他人のなれの果てなわけだし。

ただ、「まごころを、君に」は物語を語ることを放棄しているようにすら見える変化球には面食らったね。
つまり人類補完計画が発動し、ミサトの言葉を借りれば「出来損ないの群体として行き詰まった人類を、完全な単体生物として人工進化」させたわけだけれど、最終的にそれを拒否したシンジの選択が色んな意味で興味深い。
人類補完計画のモチーフ自体は「伝説巨人イデオン」のイデ発動だと思っている。
そう思えば、庵野が「イデオン」の結末を拒否したにも等しく思えて仕方がない。

他人がいるから傷つくんだと繰り返し語られた「エヴァ」の世界で、すべての壁が取り払われたことは幸せではなかったのか。
少なくとも「エヴァ」は「他人を求め、そして拒絶する物語」だったし、だからこそシンジは劇中で成された自他の境界がない世界を受け入れてしかるべきだったと思う。
あれだけ他人と関わることで傷つき続けた主人公だったんだからね。
でも、彼は最終的にそれを望まず、「それでも、もう一度会いたいと思ったんだ」という言葉と共にサードインパクトを終わらせた。
手淫であったり性交であったりといったイメージが出てくるけれど、そういった気持ちよさに逃げ込むことを否定した結末は、ある種の絶望感としても感じられる。
その上、アニメ映画を観に来ている観客を実写としてこちら側に見せるイヤミなど…もう相当なものではないか。
「オタクども、好きなことをして好き勝手言って気持ちいいか、コラ」って感じ。

ラストの「気持ち悪い…」という台詞は、高校生だった時の初見ではまったく混乱してしまったけど(直後に突然「終劇」となるし)、やはり今思えば劇中で繰り返し語られていることの集約だと思う。
他人と関わることは傷つけあうことでしかないし、気持ち悪いかもしれない。
それでも、その少し前に一瞬だけ映る副題“I need you”が、その対となるこの映画の結論なのだろう。

とはいえ、本来観客が望んでいたロボットアニメとしての何かを「まごころを、君に」で行わなかったのは、ちょっと残念な部分ではある。
逆に、観る前は誰しもが想像もしていなかった様な終局の描き方をしたことで、後年まで語りぐさになる作品になったのだけれど。
私小説かとも感じられる作品としては質が高いと思うけど、やはり一般的じゃない演出だとは思うので、普通は観終わった時に嫌悪感はあるというのが正直なところ。
でも「それが『エヴァ』だ」と思ってしまっている時点で、俺も色々とやられてしまっているんだろう。
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