YasujiOshiba

子供たちは見ているのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

子供たちは見ている(1942年製作の映画)
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DVD(イタリア映画コレクション『にがいコメ』)。同じコレクションに入っている『金曜日のテレーザ』の成功により、デ・シーカはイタリア統一のころの時代劇『修道院のガリバルディ部隊兵』を依頼される。

歴史物とは言え、その内容はデ・シーカがそれまで、カメリーニ風の軽やかさで描いてきた女子寄宿舎もの。多くのプロデューサーの注目を集め、あくまでも俳優として知られていたデ・シーカはようやく監督として認められたわけだ。

ところがデ・シーカには気に入らない。同じ「センチメンタル喜劇 comico-sentimentale 」の路線ならオファーは絶えないだろう。しかし、と彼は書いている。「わたしの望みはむしろ人間的な物語を、それまでの映画で作り上げてきたようなわざとらしさや、作りものっぽさがない登場人物によって、語ることだった」(La mia aspirazione era invece quella di raccontare storie umane, con personaggi meno costruiti e meno artificiosi di quelli che fino allora avevo curato, nei precedenti film. [De Sica, La Porta del Cielo, Momorie 1902-1952, Roma, Avagliano, 2004, p.84 ])

まさにそれ故に、この映画にはデ・シーカの映画に本人が登場しない初めての映画となる。なにしろ、デ・シーカほど「わざとらしく、作りものっぽい」登場人物はいない。まさにそのことによって、「ブルジョワ批判の映画」(un film di critica borghese)を撮ることに挑戦できたというわけだ。

そしてもうひとつ、子供が主人公だということ。原作はチェーザレ・ジュリオ・ヴィオラ(1886-1958)による小説『Pricò (プリコー)』(1924)だが、そのプリコーとは、ブルジョワ家庭に生まれた子どもの名前。そのプリコーの目を通して、ブルジョワ的な欺瞞がありのままに暴き出される。だからこそ、大胆にも、この頃の映画にはあり得なかった「妻の姦通」と「自殺」が扱われることになる。

脚本には、そのころ知り合ったチェーザレ・ザヴァッティーニが参加。そのザヴァッティーニのアイデアで、原作者の反対にもかかわらず、映画のタイトル『子供たちは見ている』としたのは、子どもたちの目を通してブルジョワ家庭の現実を、ありのままに、衒いも、わざとらしさもなく描く意思表明なのだろう。

原作との違いはタイトルだけではない。小説では最後にブリコーが母親を許す。しかしデ・シーカにはこれが受け入れられない。そのラストシーンは映画で確認してほしい。みごとなカット。みごとなラスト。ぼくらが突きつけられる不条理の重さこそは、リアリズム映画への道を開く。(ただし、イタリア版ウィキによれば、検閲を避けるため母親を許すシーンも撮影されたという)。

ところで、映画のなかに登場する海水浴場はリグーリア州のアラッシオ(Alassio)。フランスの国境がすぐそばで、撮影中には何台もの軍用車がフランスに向かって走っていったという。時は1942年ごろ。デ・シーカをはじめ、多くのイタリア人は、今や敵となったフランスには、なんの恨みももっていなかったのに、サヴォイア家とムッソリーニの決断によって戦うことになる。その不条理は、おそらくプリコーの感じた不条理と重なってくるものではないだろうか。

もうひとつ。リアリズムだけでは終わらせられない演出がある。夢のシーンだ。プリコーの夢は、車窓に次々と投影されてゆくのだが、フロイトに登場願うまでもなく、容易に夢判断がつく。とはいえ、子どもの精神状態を夢を通して描き出すこの手法、なんだかサイレント映画を見ているようでもあり、記憶に残る場面なのだ。