サマセット7

反撥のサマセット7のレビュー・感想・評価

反撥(1964年製作の映画)
3.8
1965年公開のイギリス映画。モノクロ。
監督・脚本は「ローズマリーの赤ちゃん」「チャイナタウン」のロマン・ポランスキー。
主演は「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」のカトリーヌ・ドヌーヴ。

[あらすじ]
ロンドンにて、姉とアパートに暮らす潔癖なキャロル(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、姉と妻子持ちの男の情事の音を毎夜聞かされ、精神的に追い詰められていく。
姉と男が海外旅行に出かけた後、ますますキャロルの神経症的傾向は進み、男性への恐怖、幻覚、幻聴などを体験して、日常生活も破綻を来していき…。

[情報]
ポーランド出身のロマン・ポランスキー監督が、国外での評価を受けてイギリスに進出して監督・脚本を務めた作品。
今作は、ベルリン国際映画祭にて銀熊賞・審査員グランプリを受賞し、ポランスキー監督の評価を一躍高め、後のハリウッド進出を後押しすることになった。

ロマン・ポランスキー監督は、ユダヤ系ポーランド人だが、ナチスの虐殺により母親を失い、強制収容所から脱出してヨーロッパ中を放浪したという壮絶な体験をしている。
その反映か、今作や「ローズマリーの赤ちゃん」など、傑作と評される恐怖映画を撮っている。
その後も妻シャロン・テートに起こった悲劇や少女への淫交容疑による有罪判決、アメリカからの脱出など、現在に至るまで、その人生は平坦ではない。
その一方で、「チャイナタウン」「戦場のピアニスト」など、映画史に残る名作を撮っており、特異な才能の持ち主であることは議論の余地がない。
今作は、彼の長大なフィルモグラフィーにおける初期の代表作、といったところか。

ジャンルはサイコ・ホラー。
ミュージカル映画「シェルブールの雨傘」で世界的スターとなったフランスの女優カトリーヌ・ドヌーヴを主役に起用している。

特に批評家から、現在でも非常に高い評価を得ている。

この手の「ニューロティック・ホラー」(神経症的ホラー)の原型の一つであり、後世の作品においてオマージュされる作品の一つであろう(近作ではラストナイトインソーホーなど)。

[見どころ]
鬼才ポランスキー監督による、若く美しい女性が狂気に陥っていく様子の、丹念かつ偏執的な映像化!!
絶妙に気味の悪い小物使い!
ウサギ!ジャガイモ!!
舐めるような不気味なカメラワーク!
ズームイン!接写!!眼球!
「若い女性の妄想」を、ポランスキーが妄想したと思われる、色々な意味で悍ましい、各種表現!
ひび割れ!伸びる手!悪夢!

[感想]
シンプルに「狂気」を描いた作品。
狂気の進行と共に、虚実の境が曖昧になっていく様をジックリといたぶるように描く。

怖い、というのではなく、悍ましい、という感じ。
前半は必要以上にジワジワした展開や女優の似たような撮り方に、食傷気味になる。
が、後半から狂気が極まっていくと、グイグイ引き込まれる。

同じくニューロティックホラーである「ローズマリーの赤ちゃん」と合わせて観ると、ポランスキー監督が、虚実が入り乱れて、主人公が混乱し、狂気に陥っていく様子の表現を得意としていることがわかる。
ポランスキー監督の半生と合わせて心理学的な考察をするのも一興だろう。

両作とも美女が心理的に追い詰められていく作品であることからすると、作り手のサディスティックな性癖を疑いたくなる。
特に今作の悪夢や幻覚の描写は「弄ぶ」というのが相応しい。
作品的には、主人公の男性恐怖症の視覚化、映像化、ということになるのだろうが、今見ると、「おっさんが妄想した男性恐怖症の女性の内面」という感じがして、やや居心地が悪い。

ジャガイモ、電話、斜塔、ウサギ、電灯など、印象的なアイテムの使用は、さすが、と唸らされる。
ひょっとすると、それぞれフロイト的な寓意があるのかもしれない。
少なくとも、斜塔や天井の電灯が意味するところは露骨だ。
発芽したジャガイモは卵子と精子、ウサギは胎児の暗喩、と見ることも可能だろう。
全編、説明らしい説明なしで、ほぼ映像のみで狂気を描き切っている点が、とても映画っぽい。

カメラワークにも面白いところがある。
例えば、キャロルの彼氏が訪問してくるシーンの、キャロルと彼氏の間に向かいのお婆さんが映り込むショットは、工夫がある。
その後の展開も含めて、印象に残る。

全体としては、良くも悪くも、この手のサイコホラーの雛型的な作品、という感じか。
後続との差別化という意味では、この時代ならではの、作り手の性癖がフィルムにモロに出てしまっている感、が注目ポイントであろうか。

[テーマ考]
今作は、若い女性の陥る狂気を克明に映像化せんとする作品である。
おそらく、作り手にそれ以上の意図はないのではないか。

ラストシーンは、狂気の根源を示唆するようにも思えるが、その解釈は観客に委ねられている。

60年代の作り手の意図を離れて、現代において物語が発するテーマを考えるのも一興かもしれない。
今作に登場する男は、どいつもこいつも悪い意味でマッチョな奴ばかりだ。
女性に対する共感なしに本能のまま、その肉体を求め、酷い目に遭う。
現代でこのアプローチの仕方をしていては、何をされても仕方がないだろう。
相手にも様々な事情があるのだから、気を遣おう。
手を出す前に同意を取れ!
妻子がいながら、愛人宅で毎夜セックスして愛人の同居人に迷惑をかけるなんて、言語道断!
気を遣え!!
もっとナイスなやつになれよ!!
といった風なテーマが、読み取れなくもない。

おそらくタチが悪いのは、今作の男性像は、60年代当時の男性像の、そんなに極端なデフォルメではないのではないか、ということだ。
そして、現代といっても、似たようなノリの男は、まだまだいるのではないか、と考えると暗澹とせざるを得ない。

[まとめ]
女性の狂気を粘着質に描いたサイコホラーにして、鬼才ポランスキー監督の初期の代表作。

作中、チャップリンの映画が上映中、というセリフがある。内容からして、明らかに「黄金狂時代」のことを言っている。
すると作中の年代は1920年代?
それとも再放映という設定だろうか?