倉科博文

ファイト・クラブの倉科博文のレビュー・感想・評価

ファイト・クラブ(1999年製作の映画)
3.6
「”豊かさ”の正体」とアンチテーゼ

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物事の本質とはあまり関わりのない付加価値ー
これこそが現代の豊かさの正体だとも言えるが、これを敵に回すにはテイラー・ダーデンは、僕にとっては力不足だったように思う
我々の頭の隅々までこびり付いているこの価値観は、もはや僕を含めた多くの人々のアイデンティティの一部となっている
僕にとっての”これ”をこそぎ落とすには、やはりヒース・レジャーのジョーカーくらい圧倒的な存在感が必要なのかも知れない
もしくは、そこまで飛躍しなくとも、『ドラゴンタトゥーの女』のリスベットも、体制とぶつかる事を恐れないアイデンティティを持つヒロイックなキャラクターとして魅力的だった

しかし若者や、既存の価値観や社会の閉塞感に対して燻る感情を持つ人々を始めとした一定層が、この「反逆のカリスマ」に対して憧憬を覚え、あるいは神格視して祀り上げる感覚も分からなくはなかった
それは、僕の中では、『尾崎豊』に近いものであるのだけれど。

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「緻密な計画に宿る情動」

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20世紀最大の政治経済学者・社会学者と言われた小室直樹氏は、こう喝破したー

「常日頃、極限まで論理的な思考を積み重ねている人であればあるほど、その動機を辿ると根源には非論理的な情動が渦巻いている」

小室氏を例に取れば、彼はソビエト連邦が崩壊(1991年)する11年前に、論理的な帰結から、その崩壊を著書にて宣言していた
いったい何をして、彼の頭脳を剃刀のように冴えさせていたか
彼はこう語っている(意訳)ー
「私は、日本がアメリカに負けない経済力・政治力を持つために、その一助となるために猛烈に学んだ」
「私の中で、太平洋戦争での敗戦は、とても大きい心の傷だった」
「もう二度と、日本の”負け”を見たくない」
つまり、彼は”国への愛”という情動によって、研ぎ澄まされた論理的思考マシーンのような存在になったのだろう

思い付いたかのようなテロ行為なんてものは、ちっぽけな情動で、本当に大きな情動というのは何年、何十年の時を経て大きな思索や計画を駆動するエンジンとなるわけだ

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そういう意味では、やはりブラッド・ピット演じるテイラー・ダーデンは、情動を土台とした論理性をしっかりと構築していた
テイラーの場合、この情動はルサンチマンの類だったのだとは思うが、情動と論理的構築を共に司る存在として、映画内における存在感は十分だったといえる

そして面白いのは、エドワード・ノートンを含めた主人公二人が、『論理と情動』や『社会と非社会』の対比ではなく、太陽に照らされた月のような『陰と陽(yin&yan)』の関係にあったことだ

情動に焚きつけられたブラッド・ピットとエドワード・ノートンが熱くなり、また一人は冷めていく様は、まるで太陽に照らされて刻々と温度や表情を変える月面の様ではないか

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惜しむらくは、この作品を見る前に、丁度、今邑彩の『ルームメイト』を読んでしまったことか(もちろん原作の小説を)
そのため、この映画の最後の楽しみが大きく削がれてしまったのが悔やまれる。

開始90分くらいで描かれた主人公級3名が階上・階下に分かれて問答するシーンで、図らずもこの映画の仕掛けが解ってしまい、ここからの「いかにも伏線でござい」とばかりの匂わせ表現が鼻についてしまった。

それでも緊迫感のあるシーンの連続で、飽きさせたりダレたりしなかったのは、作品のクオリティの高さ故だと思う

作品としては大いに楽しめました