サマセット7

レスラーのサマセット7のレビュー・感想・評価

レスラー(2008年製作の映画)
4.3
監督は「レクイエム・フォー・ドリーム」「ブラック・スワン」のダーレン・アロノフスキー。
主演は「ナインハーフ」「エンゼルハート」のミッキー・ローク。

80年代にスターとして活躍したプロレスラーのラムことランディ(ミッキー・ローク)は、20数年後の現在も現役で試合を続けていた。
十分な収入がないためスーパーマーケットでアルバイトをし、過酷な訓練や薬物すら使用して自らの肉体を維持し、観客の期待に応えるため、試合ではその肉体を傷つける日々。
ある日、流血を含むハードな試合の後、ランディは意識を失う。
原因は、心臓発作。
医師は、レスラーとしてリングに立つと、命の保障はないと警告する。
引退を決意したランディは、スーパーでのシフトを増やし、想いを寄せていたストリッパーのキャシディ(マリサ・トメイ)との関係を深め、絶縁状態にあった一人娘のステファニーとの関係を取り戻そうと行動するが…。

評論家から、ゼロ年代の映画の中でも特に高い評価を得ている作品。
ベネツィア国際映画祭金獅子賞受賞、その他特に主演のミッキー・ロークは今作の演技を評価され、多数の賞を獲った。
観客からも一定の評価を得た。
600万ドルと比較的低予算で製作され、興行収入は4400万ドルと健闘した。
スポーツ映画の特集などで、ゼロ年代の名作として挙げられることが多い。

メインストーリーは、歳を取った元スーパースターのプロレスラーが、肉体の限界に直面して、自らの人生に向き合う、というもの。
プロレスという競技を描いた映画であり、ヒューマンドラマでもある。

今作の大きな魅力は、プロレスのリアルな描写にある。
レスラー同士の試合前の打合せ、ステロイドなどの薬物の使用、試合中カミソリを使って流血させるなどの演出面に踏み込む一方、全ての技を受け切り、時には武器による攻撃も耐える、過酷な競技の実態をも赤裸々に描く。

アロノフスキー監督は、よく知られた技巧的な編集スタイルを今作では封印。
手持ちカメラを中心とした、ドキュメンタリー風の撮影法で、リアリティ豊かにランディというプロレスラーの生き様とプロレスそのものをフィルムに焼き付けた。

ランディを演じるミッキー・ロークは、80年代にセクシーな俳優として「ナインハーフ」などの出演作で脚光を浴びていた。
90年代にはプロボクサーに転向し6勝2分0敗の成績を残した後引退。
俳優業に復帰するも、ボクサー時代に顔面に怪我を負い、整形手術に失敗するなどして人気は低迷。
今作の出演までは半ば「終わった俳優」と見做されていた。
その俳優としての経歴は、今作の主人公ランディの経歴とぴったりと重なる。
キャスティングに意味があることは明らかだろう。

今作の最大の見どころは、題材、キャスティング、脚本などが精緻に織りなす、多層的な作品構造と、その結果として、観るものに複雑な感慨を覚えさせるクライマックスにある。

心臓発作後、ランディは、プロレス以外の仕事、パートナー、血縁の絆を、それぞれ求める。
しかし、それらは、プロレスに人生の全てを捧げてきた男が、これまで顧みなかったものそのものである。
プロレスが続けられないからといって求めて、ホイホイと救いが与えられるほど、人生は甘くない。
ランディは、現実の厳しさに打ちのめされる。

小細工なしに、ある意味不器用に人生に立ち向かい、そして防御なしにありのまま打ちのめされるランディの姿は、今作の題材であるプロレスという競技そのものと重なる。
超人的な鍛錬の果て、全てを受け切る、肉体の美学。
その特異な様式は、全て、歓声を送るファンのためにある。

作中、キャシディの口からメル・ギブソン監督によるキリストの処刑直前の受難を描いた映画「パッション」に言及され、ランディはキリストのようだと言われる。
ラム=仔羊、のネーミングも、当然、神の子羊=イエス・キリストを想起させる仕掛けだろう。
ランディの必殺技、ラム・ジャムは、トップロープからのボディプレスだが、飛び降りる直前の姿は、さながら十字架に磔にされたキリストである。
なるほど、プロレスラーとして自身に対するあらゆる攻撃を受け入れるランディは、左の頬を打たれると右の頬を差し出すキリストと重なる。
今作の監督アロノフスキーは、ユダヤ教徒の両親をもち、作品で繰り返し聖書やユダヤ教に言及する作風で知られる。
「ファウンテン」しかり、「ノア約束の船」しかり、「マザー」しかり。
今作でも、アロノフスキー監督にとって、究極の聖なる存在にして救世主、キリストを、ランディと重ね合わせたとしても不思議はない。
全てを捨てて、全てを捧げることで、何か偉大な、聖なるものが創られる、というのは、キリストの行いそのものである。
今作やブラックスワンにも共通する、アロノフスキー監督の核となる思想のように思われる。

クライマックス、まさしく全てを捧げて、男は再びリングに立つ。
多層的な意味合いが交差し、観客には複雑な感慨が押し寄せる。
その主たる要因は、ミッキー・ローク自身の鍛え上げられた肉体の持つ説得力にあるように思える。
ここに、ミッキー・ローク自身の人生が、ランディにオーバーラップされる。
全てを捧げ、全てを失い、それでもたった一つ、最後に残ったもののため、再び表舞台に戻って来た男。
その、吹っ切れた満足と、哀切。
滅びゆく者の美学。
ランディ=ミッキー=キリスト=アロノフスキー=プロレスの姿は、自業自得で、愚かかも知れない。
あまりにも不器用で、何なら道化めいて滑稽かも知れない。
しかし、予定調和で終わらない、リアリティのある展開は、散りゆくものの美しさを秘めており、胸を打つ。

今作のテーマは、プロレスの本質であり、偉大なるもののために全てを捧げることの、哀切と矜持と神聖さであり、ミッキー・ロークという俳優の生き様であろう。
ラストシーン、その神々しさが、全てを物語る。

今作は、格闘技を題材とした、人生の落伍者の復活・挑戦劇であり、ストーリーラインに、名作ロッキーとの類似点がある。
主人公の役柄と俳優の経歴が重なる点もよく似ている。
しかし、ボクシングとプロレスという題材の違いと、作品テーマや根底にある思想の違いなどから、全く異なる作品に仕上がっている点、興味深い。

名優の華々しい復帰作にして、プロレス映画の代名詞となり得る傑作。
なお、引退も頭によぎるベテランのストリッパーを堂々と演じたマリサ・トメイもまた、80年代に青春時代を過ごした同時代の併走者を見事に演じて素晴らしい。
マリサ・トメイは「スパイダーマン・ホームカミング」のメイおばさん、ミッキー・ロークは「アイアンマン2」の敵役イワンと、2人ともMCUに出ていたりする。