YasujiOshiba

母の微笑のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

母の微笑(2002年製作の映画)
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未見だったのでキャッチアップ。まいった。これもすごい作品だ。なるほどグラディーヴァの話を、ぼくは『夜よ、こんにちは』(2003)で知ったのだけど、ここからつながっていたのだ。

2000年のジュビレオ(聖年)のことは、なんとなく覚えているけれど、壁の崩壊いこうの政治的イデオロギーの崩壊、それにともなって宗教と民族主義の問題が顕現してきたことが、この映画の背景にあるわけだ。

イタリアにおいてそれは、ある種のカトリックへの回帰のような形をとったことは想像にかたくない。そこで、世俗的信条をつらぬくにはどうするべきか。教会には通わないけれど、死ぬときは終油の秘跡を許してしまうイタリア的な左派をどうとらえるべきか。そして「微笑みの母」というサブタイトルの重要性。

イタリア語の原題は『Ora di religione(宗教の時間)』で「母の微笑」は副題なのだ。この「宗教の時間」とは、日本で言えば道徳の時間に相当するのだけれど、学校においてカトリック教育をおこなう時間。今ではどうやら自由選択制になってるらく、別の宗教であったり、無神論者であれば、出席しなくてもかまわない。けれども、ムッソリーニの時代のコンコルダート(政教条約:カトリックと政府の協約)に起源をもつ学校での宗教教育が、2000年のころより、新たな意味をもちはじめたこと(それがあの「母の微笑み」の偽善的で破壊的な含意)へのベロッキオの芸術家としての応答が、この映画というわけなのだ。

宗教的な価値に対するベロッキオの立場は、もちろん無神論なのだけど、その無神論はでは、具体的になにを称揚しているのか。そこにあのグラディーヴァが登場する。それはフロイトが分析したグラディーヴァではなく、その元となったW.イェンゼンの小説のグラディーヴァ。しかも、彼女はあの「宗教の時間」のマエストラ(教師)として登場するのだから、実に実に、涜神的であり、あの「ポルコ・ディ…」や「ポルカ・マ…」と叫びながら母殺しに救いを求めるような反抗ではない、もうひとつの反抗の形を開くことになる。

だからこそ、主人公のカステリットは、枢機卿に向かってこんなセリフを口にするのだ。

"La forma di ateismo che posso affermare contro di lei, di fronte a lei, è proprio la bellezza di innamorarmi di una donna, non solo dell'assistenza ai poveretti”.

「(枢機卿である)あなたに対して、わたしが主張できる無神論の形式は、まさに女性と恋に落ちる美しさです。貧しい人々を助ける美しさだけではないのです」

カトリック的な慈愛に対して、この無神論者が提起するのは、ひとりの血肉を持つ女性への愛であり、すなわちグラディーバの賛歌なのだ。ベロッキオというマエストロは、そんな無神論的な愛の讃歌をその見事な映像作品によってぼくたちに示してくれたというわけなのだろう。
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