次男

シークレット・サンシャインの次男のレビュー・感想・評価

4.4
観た直後は、大変困惑した。
ぼくは無宗教無信仰だし、そういう意味では、この映画を観ても、何も言う権利がない。宗教を扱う映画を観たことは少なくないが、殊更にそう痛感した。何も言う権利がない立場を自覚した上で、憤りと不満と不完全燃焼を抱えて、大変困惑した。

しかし、そう思いながらそれで済ませられないパワーがあったのも事実で、後追いでいろいろ聞いたり調べたり観直した。やはり、すごい映画なのは間違いなかった。



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ネタバレ
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信仰の自己矛盾と、信仰がそれ自体すら包含している、ということか?
ラストカットの陽光のメッセージは、「神は見ているし、これからも見ている」とか?なのか?

終わらせるの、何歩か早すぎるよ。ぼくは彼女を観てるんだから、あんな庭の陽光なんかじゃなくて、彼女にとっての陽光をもっと感じさせて終わってくれよ。ソンガンホでも加害者娘でもいいから。なんでもいいから。

なんとも観方のわかりづらい映画で、信仰をどう据えたいのか掴みかねた。信仰のないぼくからしてみれば、望んだ決着は「信仰とかじゃなく、彼女が自分の足で前に進むこと」。美容院で、髪を切るところで、違う形で苦しみきった二人で、神とか信仰とかじゃない、許すとか愛すとかじゃない、ただ髪を切り、切られてほしかった。(それを許すとか愛すとか言うのか?知らん。だとしたら、言葉の定義の問題だけじゃないか)

(たとえば神に祈る行為とか)それを選んでそれを行ってそれで乗り越えたそのひとを俺はすごいと思いたい。神とかなんかじゃなくて。 俺は、恨むなら恨み抜きたいし、「許すべき」だから許したくないし、「愛すべき」だから愛したくない。俺が許すことも愛すこともできるっていう自負じゃなくて、その方向に向かうことだったり、そうしたいとそうすべきだと、心から思ってそうしたい。 そうすべきだ、なんて普段から教えそやした行為を信望して、無選択に行いたくない。 幸運なことに、許すとか愛すとか、大仰な場面でそれらが該当するような経験はいまのところないけど、もしそんな場面に直面したら、初めてのその衝撃を初めて然と受け入れて、初めてのように泣いて喚いて、狂って、迷惑をかけて、死にたくなって、それですごく時間が経って、そのあと、ゆっくりどうすべきか考えたい。なんだか、先輩に訳知りがおで「わかるよ、わかる。すごくわかる。俺もそうだった。そういうときはな、◯◯すりゃいいんだよ」って言われるような不快感。 信仰っていう言葉がきっと理解できないんだとおもう。

ここまで無宗教無信仰で生きてきたんだ。ぼくは神とか頼らず、独力で悩んで答えて進んだり戻ったりしたい。それを見ている許してる愛してる父なる存在はいらん。

(鑑賞直後のメモ)

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クリスチャンの知人に観てもらい、いろいろと話した。
そしてら、少しわかった。たぶん、わかった。わかったら、泣けてきた。思い返して泣いた。

一日冷静に考えてみた。
僕のモヤモヤとイライラの原因は、信仰をどう描きたかったのかわからなかったこと。劇中に出てくる信仰者たちを揶揄したような撮り方をして、主人公の投げかけた信仰的矛盾に答えをつまらせるところを描き、でも、最後はあのカットで信仰に肯定的終わること。信仰を肯定したいのか否定したいのかわからん!

韓国にはキリスト教徒が多いのはなんか知っていたけど、韓国のキリスト教はあんな感じが主流らしい。言葉選ばず書くなら、ヒステリックで狂信的な。
きっと監督は、そういう信仰の在り方に、疑問を投げかけたんだろうな。それはほんまの信仰なのか?って。 信仰も、神も、パフォーマンスじゃない。ただそこにあるもの、らしい。薬局のおばさんが言っていた言葉は、その文字通りの意味では合っていて、空気のように、すべてのものがあるように、陽光のように、そこにあるもの。らしい。
やはり、最後のカットは、信仰の肯定なんだと思う。しかしそれは、それまで描いていた信仰の形とは大きく違う、(監督の意図の中で)本来の信仰の形。陽光のような。

そして、ソンガンホの存在。
彼を、主人公のそばに常にいて、彼女にとっての救いにしたいであろう役割感は伝わりつつ、でも感覚的にそれが染みなかった。
聖書の言葉に、「幼子のようであれ」といった言葉があるらしい。信仰の形。 ソンガンホは、まさにそれを体現した存在だった。「ただなんとなく教会に通うんだ。落ち着くから」と言って通い、他の信者のような、ヒステリックで狂信的なことはせず、しかし車のバックミラーには十字架をかける。 彼が、主人公を好きになった理由というかきっかけを描かなかったことも、はじめは腑に落ちなかったけど、そうか、そうだよな、理由もなく、ただそうなんだなあって。 彼は理由もなく、「ただ好きだから」彼女のそばにいて、不器用に愚直に、彼女のそばにいるだけ、気の効いた言葉だってかけられないし、かけないし、だから彼女は、彼の存在の力だってわからないし、はっきり「好きだ」なんて意識できない。きっと、この映画の続きだって、彼は明確に何かをして彼女を救うことなんてないだろう。ただ当たり前にそこにいて、馬鹿で、下品で、愚直に、真面目に、健気に、そこにいるんだろう。幼子のような彼は、やっぱり、信仰のような、彼女にとっての神のような、救いの存在なんだなあ。

実感できなくても語れてしまいそうなことばかり書き並べたけど、少なくともここに書いたことだけは、僕はよくわかって、実感をともなって、一日遅れで、この映画の力に泣けてきた。最初観たとき、あんなに曇ったフィルターで観たあのラストシーンにも、すごくささやかで、大袈裟じゃない、ごく小さな希望を感じられる。

そんなん言うたかて、信仰心なんてそれはぜんぜんわからへん、けど、「ただそこにあることが、救いになること」、それが信仰だとするなら、それの素晴らしさは少しは知ってるんだ。

(翌々日のメモ)