かずぽん

ノートルダムの鐘のかずぽんのレビュー・感想・評価

ノートルダムの鐘(1996年製作の映画)
4.0
【「カジモド」は “出来損ない”という意味】

監督:ゲイリー・トルースデール/カーク・ワイズ(1996年・米・90分・ディズニー・アニメ)
原作:ヴィクトル・ユーゴー『ノートルダム・ド・パリ』

15世紀のパリ。
主人公のカジモドは、ノートルダム大聖堂の前に捨てられていた赤ん坊だった。彼は判事フロロに拾われてノートルダム大聖堂のなかで育てられた。
冷酷なフロロに育てられたカジモドは、その容姿の醜さゆえ鐘楼の外へ出ることを禁止されていた。成長してノートルダムの鐘つき男になったカジモドの話し相手は、塔の上にある3体の石像のガーゴイルだけだった。カジモドは、いつも塔の上から町や人々を眺めては空想の世界に浸っていた。

年に一度の「道化の祭り」の日がやって来た。これは人々が怪物のマスクを被って参加し、醜さを競う祭りだった。カジモドが賑わう広場を眺めていると、ガーゴイルたちが、「カジモドも祭りを楽しんでおいで」とけし掛けた。
頭巾で顔を隠して広場に行ったカジモドだったが、“道化の王さま”に選ばれてしまう。聴衆から拍手喝采を受け、マスクを外せと迫られるカジモド。此処は、とても残酷なシーンだ。

本作は、ディズニーアニメ史上もっとも残酷で、もっともずる賢いヴィラン役フロロが登場する。
ジプシーを目の敵にしており、ジプシーだったカジモドの母親を殺したのも実はフロロだった。しかし、カジモドが広場で観衆からひどい扱いを受けた時、ジプシーの娘がカジモドを助けたのだったが、あろうことかフロロはその娘に惹かれてしまうのだ。美しい踊り子エスメラルダは、冷酷なフロロさえも魅了してしまった。
エスメラルダは、カジモドの醜い容姿の内にある純粋な心に気が付き、カジモドを庇ったことで追われる身となってしまったけれど、エスメラルダに恋をしたカジモドが、今度は彼女を守ろうとする。
フロロや追っ手たちから逃げるシーンが、カジモドのちょっとした冒険シーンのようにも見えるのは、エスメラルダを担いで、大聖堂や寺院の塔を軽々と縦横無尽に移動する身のこなしのせいかも知れない。
いつものディズニーなら悪者フロロは成敗されて、カジモドとエスメラルダは「めでたしめでたし」となるところだけれど、本作ではそうはならない。エスメラルダの心を掴まえたのは、気障で陽気な美男子の護衛隊長フィーバスなのだ。
カジモドの目の前でキスをするエスメラルダとフィーバス。カジモドは勿論、落胆したに違いないと思うが、報われなくともエスメラルダに対する献身が健気だった。
ストーカーのようなフロロのエスメラルダに向ける暗く歪んだ恋慕の情は、見ていておぞましいばかり。大聖堂の中で神の怒りに触れたフロロの最期は当然の報いと受け止められ、誰一人フロロの死を悼まなかった。

この物語は『ノートルダムのせむし男』のタイトルで知っている人が多いと思う。
映画化作品は3作あり、チャールズ・ロートンがカジモドに扮した1939年版、ロン・チェイニーがカジモドを演じる1923年版(是非、観てみたい!)と、アンソニー・クイン主演の1956年版がある。
1939年版を観た際に、私はチャールズ・ロートンのカジモドの扮装に注目しつつ、フロロ、エスメラルダ、カジモドの愛のあり様について、それぞれを自己中な愛、憐憫の愛、感謝の愛とメモに書いていた。本作の鑑賞では、人間の持てるあらゆる要素が登場人物たちに振り分けられていると思った。本作で描かれた人物において根源的な人間の姿が示されていると感じたのだ。フロロの悪行、邪な思いにさえも、誰もが思い当たる部分があると思う。善い人と感じても愛する対象とはならなかったり、美醜に左右されたり、運命を恨んだりもする。普遍的な要素が示されているだけに、綺麗事ではないテーマに心が揺さぶられる。「人生は思い通りにはならない」ということを改めて噛みしめた。

全編に流れる曲も素敵。
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【メモ (ガーゴイルについて)】
ガーゴイルの役割(機能)は、元々は雨樋だったそうだ。
雨樋の機能と彫刻が合体した水の排出口をガーゴイルと呼ぶ。
因みに、ノートルダム大聖堂のガーゴイルは雨樋の用を成しておらず、グロテスクと呼ばれているそう。
グロテスクとは、古代ローマで異様な人物・動植物などに曲線模様をあしらった美術様式だそうだが、
それらとカジモドの容姿の合致が意味深。
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