かずぽん

東京画のかずぽんのレビュー・感想・評価

東京画(1985年製作の映画)
3.2
【小津監督作品に 世界中の家族の姿を見るという】

監督・脚本:ヴィム・ヴェンダース(1985年・西独・93分・ドキュメンタリー)
原題:TOKYO-GA

小津安二郎を敬愛し、小津の作品に家族の原風景を見るというヴィム・ヴェンダース監督。1945年生まれの彼は連合軍占領下の西ドイツで生まれ育った。
『パリ・テキサス(1984年)』『ベルリン・天使の詩(1987年)』『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(1999年/ドキュメンタリー)』などの作品があり、最近では役所広司主演の『PERFECT DAYS』がある。
本作は西ドイツ製作ながら配給会社がフランス映画社となっている。そのせいなのかナレーションはフランス語だった。(そして、日本語字幕)インタビューを受ける笠智衆や小津組の名カメラマン厚田雄春は日本語で話すが、その彼らの声に被せる形でヴェンダース監督のナレーションが入り、折角のお二人の声が聞こえないのはとても残念だった。
レビュー冒頭で“小津の作品に家族の原風景を見る”と書いたが、本作の最初と最後に挿入される『東京物語(1953年)』の時代でも、既に「家族」という共同体が崩壊しつつある現実が描かれていた。(戦後の核家族化が進み始めた頃?)
それでも、ヴェンダース監督は、「東京物語」の中に世界共通の家族の「形」「情」「しがらみ」などを見たのだろうか。

『東京物語』で尾道から上京する父親・平山周吉を演じた時は、まだ笠は若かった。笠は1904年生まれだから、当時は49歳?それで60歳に見えるように演技するのは苦労したようだ。(実際、このインタビュー時の方が作中の役よりも背筋が伸びて若く見えた。)
笠は小津に言われるままに演技し、小津の求める人物像に成りきろうとしたようだ。それでも続けざまにダメ出しが入り、20回以上もやり直したことがあったが、どこが悪かったのかは分からずじまいだった。
しかし、私が観た小津作品には、いつも笠智衆が父親役で出ていたので、小津監督にとっては必要不可欠な役者になっていたのだと思う。

サイレントの時代から撮影助手を務めて来たというカメラマンの厚田は、小津の特徴であるカメラのローポジション(アングル)について語ってくれた。小津監督のこだわるローポジションはかなり極端で、時には腹ばいになってカメラを覗くため、厚田はいつも茣蓙(ござ)を抱えて移動していたという。
厚田は、小津が使っていたカメラを乗せる三脚や雲台を使って、当時の撮影風景を再現して見せてくれた。
そして、小津のこだわりは相当なもので、これで良しとなったらその位置にカメラを固定する。周囲の者は細心の注意を払い、カメラにぶつかってポジションを狂わせないようにかなり神経を使ったようだ。
笠智衆と厚田雄春へのインタビューのシーンは興味深かった。

一方で、ヴェンダース監督が『東京物語』に観た東京の姿はもうなかったとガッカリしたように言っていたけれど、それは東京以外の外国の都市にも言えることだと思うし、当然のこととしか思えないのだ。(しかし、郷愁の思いは理解できる)
彼が映し出した1983年4月の東京の姿は、墓地、花見の風景、パチンコ店の店内、ゴルフ練習場、食堂のメニューの(本物そっくりの)サンプルを作る工場、竹の子族等々。そして、街やビルのネオンサインや夜景だった。
また、テレビの画面にはプロ野球の試合やタモリ倶楽部(次々に出る女性の色とりどりのパンティーのお尻)など。ほんの一部を切り取っただけなのに、ちょっと気恥ずかしい気持ちになる。
最近になって本作について語ったヴェンダース監督の言葉に胸が熱くなった。監督は、『東京画』で厚田カメラマンと長く話をしたが ―もちろん通訳が必要だったが― 日本語の意味が分らなくても、厚田さんが何を伝えようとしているのかは、その日本語の音からも、厚田さんが浮かべた涙からもよく分ったと言う。小津監督を亡くした悲しみ、彼のカメラマン人生も同時に終わったということも。
実際、厚田自身が「小津先生以外の監督とは仕事をする気にはならなかった」と言っていた。小津を敬愛する者同士、通じるものがあったのだろう。

因みに『東京画』の“画”には“イメージ”という字幕がついていた。
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