ぴのした

「A」のぴのしたのレビュー・感想・評価

「A」(1998年製作の映画)
3.9
地下鉄サリン後のオウムを追ったドキュメンタリー。本と一緒に鑑賞。

オウムの怖さよりも、警察やマスコミ、世間の人々が怖いというのが一番の印象だった。

信者たちはどんなに罵られても冷静で理性的な一方、"俗世"の人々は感情的に怒鳴り立て、「オウムには何をしてもいい」と高圧的に(時には違法な手段を用いて)信者たちを責め立てる。直接事件に関わった幹部たちならともかく、末端の穏やかな信者たちに対してもだ。

相手を指差しながら「おまえらはこうだからダメだ!」と決めつけて罵る警官は、権威的で根性論を振りかざす"昔の日本人"に見える。

一方で、理性的に対応する信者たちの方がむしろ現代に生きる人のスタンダードに近いように思える。

監督の森達也は、映画について書いたドキュメンタリーで、オウムの信者たちも、その対局にあるはずの世間、警察やマスコミも、同じ「組織の倫理に縛られた存在」という点で、本質は同じだと説く。

「麻原がこう言っていることは絶対」。(テレビや警察組織の)上層部がこう考えているから」。下の者が自ら考えることを放棄した時に倫理の逸脱が起こる。

あの警官の口調や怖い顔つきは、いかにも「組織の一員としての顔」という感じがした。信者たちが信仰について語るときも同じで、それまで普通に会話していたのに、修行をしだすと怖い。

その異質感は、個人としての顔から、無個性の組織の一員としての顔に(本人は無自覚に)変わる恐ろしさなのかもしれない。

実際、警官だって駐在所にいる時に話しかけたシーンでは、雰囲気はだいぶ柔らかかったし、個人としての会話が成り立っていた。誰だってそういう二面性がある。

この作品が批判されがちな点は、オウムをありのままに映すという手法を採ったために、一般人とそんなに変わらない信者たちの無邪気さが、オウム擁護的にも取られかねない点だ。

森達也は、「バランスは撮る側じゃなく、見る側が取るべきだ」というが、そればかりはどうかと思う。

事件当時はニュースで事件の被害者遺族や、オウム批判があふれていただろうから「世間から見たオウム」は十分理解できただろうが、今映画を見ると逆に「オウム側から見た世間」しか分からない。

これだけを見ると結果的にオウムにばかり同情してしまうが、報道する側が一番寄り添わないといけないのは、なんの落ち度もないのに命を奪われた事件の被害者ではないのか、と思ってしまう。

それでもオウムの立場に立つのなら、例えば地下鉄サリンのニュース映像や、被害者のインタビューが少しでもあると、「なぜこんな温厚な人たちがこんな凄惨な事件を?」というクエスチョンが際立ったのではないか。

それとも、そういう「双方の目線を提示しますよ」という考え方自体が、マスコミの啓蒙主義的な傲慢さなのだろうか。

森達也はこの映画を撮る上で、表現の客観性について次のように書いている。

"事実と報道が乖離するのは当然なのだ。(中略)絶対的な客観性など存在しないのだから。ただ少なくとも、自分が感知した事実には誠実でありたいと思う"

何年もオウムを追って、様々な事件の現場をその目で見て感じたことを、そのままのトーンで語る。「オウム寄り」だと批判されることは目に見えていたはずだ。

それでも自分が感じた「真実」はこれだとブレずに発信できる姿勢は、これからの報道が目指すべきあり方の一つかもしれない。