イスケ

十二人の怒れる男のイスケのネタバレレビュー・内容・結末

十二人の怒れる男(1957年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

ダメなブラッド・ピットみたいな陪審員12番はさすがに笑うねw
風見鶏がどちらを支持しているかで優勢な方が分かる構図も面白い。

ただ、狭い場所に集められて一票の責任を負わされでもしない限り、大抵の人は「どっちでもいい」が心の奥底の本音だろうと思う。

「疑問がある限り有罪にはできない」

「考えていない人」は、大抵が多数派の中にいるものだ。無関心や同調圧力の流れに疑問を持てるからこそ少数派側に回れる。
本作で描かれていたのは、集団心理の中で異論を認めずに物事が進んでしまうことへの警鐘でしょう。


アメリカの陪審員制度は「12人の陪審員の全会一致によって有罪か無罪が決められる」ときている。
12人の意見が合わないといけないって泡吹いて倒れそう。気が遠くなる。
脳死の有罪支持者たちのような「さっさと結論づけたい」気持ちも残念ながら理解はできてしまうんだよね。人の命がかかっているのに。

「全会一致」の善し悪しはある。
長所の一つとして考えられるのは、より深い議論に発展する可能性が高いことかなと思った。

これが多数決だったらどうだろう。
陪審員8番がいるのでそれなりに表面上の議論は為される思うものの、「11-1」の状況から投票の間までにひっくり返せる余地はほとんど残されていないんじゃないか。

一方で全会一致であれば、陪審員8番が折れなければ議論は続く。議論は深まる。何度も投票をする。
そうやっていくうちに、12人いて11人が気づかないという鼻の両側の跡にまで気づき、議論の流れが大きく変わっていく(コンタクトレンズのない時代か)。

そもそも容疑を固めていくのに有利な証拠が集められるのだから、どうしたって「有罪」が有利なんだよな。フェアとは言えない。
議論が深まらなければ、多くのケースで最初の印象のままの判決に至ることは避けられない。

その流れをたった一人でも止めることができ、裁こうとしている罪にじっくりと向き合える時間を生み出せるところに、アメリカの全会一致方式の良さがあるのだと考えた。

しかし、陪審員8番のような毅然と反論できる存在がいなかった時には、むしろ「一致させなければ」という同調圧力が強まってしまうのではないかと思う。善し悪しは難しい。


同調圧力について言えば、後半は「無罪の圧力」が働き始めていたことにも注目したい。

陪審員8番を中心とした無罪側の理屈も、角度を変えれば屁理屈の積み重ねに感じなくもないし、そもそもすべて推論なのは両者変わらないわけだよね。

みんなで席を立ち、ジジイの主張を無視をした際の空気。
最後まで有罪派だった陪審員3番に向けられる「お前が無罪と言えば終わるんだぞ」という視線。あれこそ同調圧力だろう。

陪審員8番は正義の味方然としているから見映えは良いものの、彼が実は詐欺師だったら同じことをしていても全く印象は変わってくるはずだ。

個人的な感覚で言えば、これだけの状況証拠が揃っているのであれば、有罪だった可能性の方が高いという印象は否めなかった。


でも、犯人探しが本作において重要ではないのは明らか。

どんなにグレーであっても、法において何らかの決着をつけなくてはならない。
確証のないことに罪のラベルを貼るわけだから、すべての裁きが真実であることはあり得ない。

できることは、「人を裁くこと」に対してしっかりと重さを感じることなのだと思う。
イスケ

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