きょんちゃみ

戦争と平和のきょんちゃみのレビュー・感想・評価

戦争と平和(1956年製作の映画)
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【戦争と平和の非対称性】

「人類はなぜ戦争するのか、なぜ平和は永続しないのか。個人はどうして戦争に賛成し参加してしまうのか。残酷な戦闘行為を遂行できるのか。どうして戦争反対は難しく、毎度敗北感を以て終わることが多いのか。[…]戦争と平和というが、両者は決して対照的概念ではない。前者は進行してゆく「過程」であり、平和はゆらぎを持つが、「状態」である。[…]まず、戦争である。戦争は有限期間の「過程」である。始まりがあり終わりがある。多くの問題は単純化して勝敗にいかに寄与するかという一点に収斂してゆく。戦争は語りやすく、新聞の紙面一つでも作りやすい。戦争の語りは叙事詩的になりうる。[…]民衆には自己と指導層との同一視が急速に行われる。単純明快な集団的統一感が優勢となり、選択肢のない社会を作る。軍服は、青年にはまた格別のいさぎよさ、ひきしまった感じ、澄んだ眼差しを与える。[…]前線の兵士はもちろん、極端には戦死者を引き合いに出して、震災の時にも見られた「生存者罪悪感」という正常心理に訴え、戦争遂行の不首尾はみずからの努力が足りないゆえだと各人に責任を感じるようにさせる。[…]人々は、したがって、表面的には道徳的となり、社会は平和時に比べて改善されたかにみえることすらある。かつての平和時の生活が、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代として低くみられるようにさえなる。実際には、多くの問題は都合よく棚上げされ、戦後に先送りされるか隠蔽されて、未来は明るい幻想の色を帯びる。兵士という膨大な雇用が生まれて失業問題が解消し、兵器という高価な大量消費物質のために無際限の需要が生まれて経済界が活性化する。[…]もちろん、戦争はいくら強調してもしたりないほど酸鼻なものである。しかし、酸鼻な局面をほんとうに知るのは死者だけである。「死人に口なし」という単純な事実ほど戦争を可能にしているものはない。[…]戦争が「過程」であるのに対して平和は無際限に続く有為転変の「状態」である。だから、非常にわかりにくく、目にみえにくく、心に訴える力が弱い。戦争が大幅にエントロピーの増大を許すのに対して、平和は絶えずエネルギーを費やして負のエントロピー(ネゲントロピー)を注入して秩序を立て直しつづけなければならない。一般にエントロピーの低い状態、たとえば生体の秩序性はそのようにして維持されるものである。エントロピーの増大は死に至る過程である。秩序を維持するほうが格段に難しいのは、部屋を散らかすのと片付けるのとの違いである。戦争では散らかす「過程」が優勢である。戦争は男性の中の散らかす「子ども性」が水を得た魚のようになる。ここで、エントロピーの低い状態を「秩序」と言ったが、硬直的な格子のような秩序ではない。それなら全体主義国家で、これはしなやかでゆらぎのある秩序(生命がその代表である)よりも実はエントロピー(無秩序性)が高いはずである。快適さをめざして整えられた部屋と脅迫的に整理された部屋の違いといおうか。全体主義的な秩序は、硬直的であって、自己維持性が弱く、しばしばそれ自体が戦争準備状態である。さもなくば裏にほしいままの腐敗が生まれている。[…]これに対して平和維持の努力は何よりもまず、しなやかでゆらぎのある秩序を維持しつづける努力である。しかし、この“免震構造”の構築と維持のために刻々要する膨大なエネルギーは一般の目に映らない。平和が珠玉のごとくみえるのは戦時中および終戦後しばらくであり、平和が続くにつれて「すべて世はこともなし」「面白いことないなぁ」と当然視され「平和ボケ」と蔑視される。すなわち、平和が続くにつれて家庭も社会も世間も国家も、全体の様相は複雑化、不明瞭化し、見渡しが利かなくなる。平和の時代は戦争に比べて大事件に乏しい。人生に個人の生命を越えた(みせかけの)意義づけをせず、「生き甲斐」を与えない。これらが「退屈」感を生む。平和は「状態」であるから起承転結がないようにみえる。平和は、人に社会の中に埋没した平凡な一生を送らせる。人を引きつけるナラティヴ(物語)にならない。「戦記」は多いが「平和物語」はない。世界に稀な長期の平和である江戸時代250年に「崇高な犠牲的行為」の出番は乏しく、1702年に赤穂浪士の起こした事件が繰り返し語り継がれていった。後は佐倉宗五郎、八百屋お七か。現在でも小康状態の時は犯罪記事が一面を飾る。[…]時とともに若い時にも戦争の過酷さを経験していない人が指導層を占めるようになる。長期的には指導層の戦争への心理的抵抗が低下する。その彼らは戦争を発動する権限だけは手にしているが、戦争がどういうものか、そうして、どのようにして終結させるか、その得失は何であるかは考える能力も経験もなく、この欠落を自覚さえしなくなる。戦争に対する民衆の心理的バリヤーもまた低下する。国家社会の永続と安全に関係しない末梢的な摩擦に際しても容易に煽動されるようになる。たとえば国境線についての些細な対立がいかに重大な不正、侮辱、軽視とされ、「ばかにするな」「なめるな」の大合唱となってきたことか。歴史上その例に事欠かない。そしてある日、人は戦争に直面する。[…]まだ戦争が始まっていないという意味での平和な時期の平和希求は、やれないわけではない。しかし、戦争反対の言論は、達成感に乏しく次第にアピール力を失いがちである。平和は維持であるから、唱え続けなければならない。すなわち持続的にエネルギーを注ぎ続けなければならない。しかも効果は目にみえないから、結果によって勇気づけられることはめったになく、あっても弱い。したがって徒労感、敗北感が優位を占めてくる。そして、戦争の記憶が遠のくにつれて、「今はいちおう平和じゃないか」「戦争が起こりそうになったら反対するさ」という考えが多くの者に起こりがちとなる。しかし、これは力不足なのではない。平和を維持するとはそういうものなのである。その困難性は究極は負のエントロピーを注ぎ続けるところにある。実は平和は積極的に構築するものである。[...]実際、人間が端的に求めるものは「平和」よりも「安全保障感 security feeling」である。人間は老病死を恐れ、孤立を恐れ、治安を求め、社会保障を求め、社会の内外よりの干渉と攻撃とを恐れる。人間はしばしば脅威に過敏である。しかし、安全への脅威はその気になって捜せば必ず見つかる。完全なセキュリティというものはそもそも存在しないからである。「安全保障感」希求は平和維持の方を選ぶと思われるであろうか。そうとは限らない。まさに「安全の脅威」こそ戦争準備を強力に訴えるスローガンである。まことに「安全の脅威」ほど平和を掘り崩すキャンペーンに使われやすいものはない。自国が生存するための「生存圏」「生命線」を国境外に設定するのは帝国主義国の常套手段であった。明治中期の日本もすでにこれを設定していた。そして、この生命線なるものを脅かすものに対する非難、それに対抗する軍備の増強となる。1939年のポーランドがナチス・ドイツの脅威になっていたなど信じる者があるとも思えない。しかし、市民は「お前は単純だ」といわれて沈黙してしまう。ドイツの「権益」をおかそうとするポーランドの報復感情が強調される。しばしば「やられる前にやれ」という単純な論理が訴える力を持ち、先制攻撃を促す。虫刺されの箇所が大きく感じられて全身の注意を集めるように、局所的な不本意状態が国家のありうべからざる重大事態であるかのように思えてくる。指導層もジャーナリズムも、その感覚を煽る。[…] 戦争中の指導層に愕然とするほど願望思考が行き渡っているのを実に多く発見する。しかも、彼らは願望思考に固執する。これは一般原則といってよい。これに比べれば、自己と家族の生命の無事を願う民衆や兵士の願望思考は可愛らしいものである。ほとんどすべての指導層が戦争は一カ月か、たかだか三カ月のうちに自国の勝利によって終わると考える傾向がある、第一次大戦においてはそれは特に顕著であった。すべての列強の指導層が積極的には戦争を望まないまま、「ヨーロッパの自殺」といわれる大焚火の中に自国を投入していった。列強のすべての指導層は、恫喝によって相手が屈すると思った。そのための動員令であり、臨戦体制であり、最後通牒であった。しかし、相手も同じことを思っていた。[…]願望思考の破綻が明々白々となった後、容易に堕落して「終結の仕方が見えないという形での堕落した戦争」となる。」
(中井久夫著『戦争と平和 ある観察』第1-6章)

→平和運動の効果は目立たないから、結果に勇気づけられることはめったになく、あっても弱いのでオペラント強化されず、徒労感も凄い。

→戦争と全体主義は高エントロピー状態で、平和は低エントロピー状態であるから、維持し難いのは後者である。だから戦争と全体主義が異常事態なのではなく平和が奇跡的な異常事態である。
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