Mayuzumi

さらば、わが愛 覇王別姫のMayuzumiのレビュー・感想・評価

さらば、わが愛 覇王別姫(1993年製作の映画)
4.1
 日中動乱・文化革命にのまれて、戦前から戦後へ転がり落ちるように零落していく二人の京劇役者の人生を、甘美に・頽廃的に炙り出す、まるで叙事詩のような、歴史の深いうねりを感じさせて呉れる映画であり、ある意味、「時間」そのものが主役の映画であるとも言える。冒頭にはじまる銅鑼の、乾いた・金属的なリズムが、深い時間の狭間に消えた二人の存在の翳を偲ばせ、まるで彼らの葬送に立ち会ったような空しさ・物憂さを、ふと終幕に感じてしまう。ふいに銅鑼が打ち鳴らされて、二人がまた我々の前に・舞台の上に現れる期待が、まだ頭のどこかにあるからであろう。しかし役者が去るときはいつも、舞台の上からである。
 主演を演じるレスリー・チャンは、彼の持味である、鬱屈した内面と暗い激情とを総動員し、これ以上を望めない凶気の演技でもって、幼馴染 ( チャン・フォンイー ) を「愛してしまった」同性愛者を体現する。同性愛の描写の多くは暗示的なものに留められているけれど、例えば幼年時代の回想シーンで、白粉をしたレスリーのおでこに出来た創を、幼馴染が舌で舐めるショットは、とくにうつくしい印象を残す。稽古場の木造廊下の雰囲気も相まって、ノスタルジーとエロティシズムが匂いやかな同居を遂げている。
 二人が劇中の役で姫と英雄の関係にあったことも、彼の同性愛を語る上で見逃せない。
 女形は長じるにつれ、舞台と現実とを区別することが困難になっていく。永年手癖になっていた阿片の毒も禍して、物語の愛と現実の愛との境目が曖昧になってしまうのである。激情と迸った愛は、しかし現実の舞台上では無惨と枯れ、我が身に残ったものといったらば、阿片の茨に模られた、歪な同性愛の残骸の哀しみである。
 華美の化粧と台詞回し、舞台衣装に毒された女形の憐れな足掻きと言えなくもない、しかし現実を舞台的に書き換えるレスリーの試みの原点とはいったい何だろうか。
 それはあの日のおでこの創ではないか、おでこに充てられた幼馴染のひとつの舌であったのではないか、と仮定するならば、あの稽古場の夢うつつの回想シーンのなかに、すでに、晩年の哀しみと茨が滲んでいたように思われるのである。
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