「『あしたのジョー』では丈と力石徹の対決のなかに、さまざまの比喩を投げこみ四角いジャングルのなかに六九年から七〇年へかけての闘争的な時代感情を反映してみせるわけだが、丈と片目の丹下と少年院上りのセコンド西とは、俗に言う雑草ジムに立てこもって権力と対峙するのである」(寺山修司、「誰が力石を殺したか」)
これはアメリカ版『あしたのジョー』ではないだろうか、という問い掛けがこの映画と、頭の禿げ上がった教諭に対する、私なりのささやかなセッションの試みというものである。
もちろん、社会の底辺にいる負け犬の二人が「戦略的なタッグ」を組む、という構造にある程度ジョーののアナロジーを読み解くことも可能である。だが、鮮やかなまでの反社会性や、時代感情の卓抜な暗喩といったものは、この作品とは無縁である。
注目したいのは「表現形式における既成概念」ということである。つまり、定石を逆手に取る・定型の偽装を企てるというこのパンキッシュな挑発力に、私は『あしたのジョー』とよく似た親しみのようなものを感じる。『セッション』では、この二人の本性を一見、友情や栄光やその他エモーショナルな感動で塗り固め、犯罪すれすれの教諭の罵詈雑言が真意なのか、それとも愛に裏打ちされた偽装の鞭なのかを判別しがたいものにしているが、この場合問題になるのは、今まで連綿と製作され続けてきた映画の歴史であり、また、映画の表現方法の歴史であって、教諭のフリークじみた感情の起伏には、何らリアリズムも社会性もない。あるのは映画の常識をどうやって覆すかという実験精神だけであって、むしろそれのみで事は足りている。我々はこの挑発的な実験に立ち会えばいいのである。
ある意味この映画は、既存の映画の引用とそれへの反発によって成り立っているといってもいいかも知れない。主題こそ音楽であるものの、全体は『SAW』を思わせるサスペンスの釣瓶打ちであって、そこへギャング映画から無理やり無慈悲な禿茶瓶を投入してさえいる。香港映画を思わせる苛烈な鍛練と、ノワールの定石である「女とは報われない」という展開もしっかり押さえている。そして、ラスト九分は二人の一騎打ちであり、ここで製作者はマカロニ・ウエスタンへ不敵な挑戦状を叩きつけたのではないか。
ただ、気になったのは、『あしたのジョー』には敵対者としての力石がいたが、『セッション』には誰もいないということである。
つまり、『セッション』には二人に共通する「仮想敵」が一人も存在しないのであり(敵は友情を保護する安全保障条約)、そう考えるとあのラストシーンは、行き場を失った敵を自分たちの内部に創ることによって、「憎悪の友情」に到達した瞬間だった、ということもできるだろう。
「思い出していただくとわかることだが、力石はつねに丈のリアクションとしてのみ登場してきた。あの、劇的な二人の『出会い』は、丈のもとに『あしたのために』の葉書を運んできた自転車の男が力石だったということである。力石は丈の胸の内なる幻想として生まれ、そして丈のリングの上での破産と共に消えて行ったのだ」(寺山、同上)