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ゴッドファーザーPART IIのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

ゴッドファーザーPART II(1974年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

 前作が構成、内容共にシャープでマッチョなマフィアモノであるのに対し、今作は母の死や堕胎などがあり、また生まれた現在とその過去という対比という構成が女性的というか、女性性のようなものを含んでいた。前作が冷徹なだけあり、今作のーやはり冷徹だがーより人物が掘り下げられていて愛を感じる。自分は、やはりイタリア(系)の人の撮る映画は人生愛の映画だと思うのだ。そしてそれは例えマフィアの冷酷になった男にさえ注がれ、しかし、だからこそ悲劇的なラストを迎えるのだ。

 製作的な側面から言うと、”パラマウントはコッポラに対し製作に関するほぼ全面的な決定権、事実上無制限の予算などを約束し、彼を説き伏せた(wikiより)”そうで、その豊穣さを窺わせる内容であった。それは2つの時間軸を表現できるぐらいには豊穣で、且つゴッドファーザーシリーズで最長上映時間になっていることからもわかる。それらは前作以上に作品世界への奥行きをもたらすことになった。今作、映画に「part2」と付け加える先駆けにさえなっているそうだが、今作は続編というよりスピンオフ的な側面もあり、かなり副次的な存在と言える。それは今尚続く映画のスピンオフ文化という、一個の産業形式の先駆けでさえあったのかもしれない。その革新性から今作はアカデミー作品賞を前作に続いて連続で受賞することになる。

 それを踏まえて考えると、前作の完成度やシャープさ、またシーンの衝撃度には僅かながら及ばないように思う。ラストに前作の洗礼シーンのクロスカットよろしく暗殺が巻き起こるのも、前作のお約束を倣うかのようで、ある意味ファンムービーだが演出としての切れ味では今ひとつ前作に及ばないような感じだ。まず割り切ってファンの為に作り尽くされてると受け取ろう。それはヴィトーの若かりし日が全て物語っている。あの裏切ったテシオも、今作では既に亡き人となったクレメンザも、若い頃から既に出会っており、そしてどこか微笑ましい(クレメンザが食べ過ぎて太っていく過程が愛嬌ありすぎ)。また赤子がコテンと寝転がると、ヴィトーから「ソニーボーイ」と声を掛けられ、あの野生の男の姿を赤子として見せつけられて愛おしい。そんなファン心理をガッチリ掴み離さないのはもはや狡猾すぎて、これじゃあどんな物語だってこの形式で語ったら泣けるじゃんと思った(実際数多あるスピンオフや続編はここを拠り所にしている)。ただ、それだけで終わらないから名作なのである。異様に泣かせにくる過去のノスタルジーが如実に現コルレオーネ家のドン、マイケルにフェードで被さり、あたかもマイケルにそれは業のように纏い付く。拭えぬ父の偉大さとの対比を嫌でも我々は感じる。そして映画は終盤を迎える。ソニーがまず最初に映し出され驚かされるヴィトーの誕生日の回想が入り、マイケルの孤独が浮かび上がり、その後ヴィトーがマイケル少年を抱えるシーンが入り、現在のマイケルへと再び時間は戻る。カメラはまっすぐにブレることなくマイケルの目元に接近していく。あらゆる思いを重ねたカメラはしかし、そこで期待されたはずの涙を見出すことはできない。マイケルは既に涙も枯れてしまっていた。劇伴は無き涙が流れたであろうタイミングで流れる。そこに我々はもはや彼は感情も失ってしまったのだと気がつかされる。前作の扉の拒絶のラストカットの鮮やかさに次いで今作もまたラストカットは素晴らしい。そして、それはもはや拒絶も無く、ただそこに”無い”という残酷な提示による幕切れなのである。ここまでのあらゆる豊穣な物語と愛が、もはや一切マイケルに効かない無力感、ドッと押し寄せる疲労、劇場を立ち去る足取りは前作以上に重かった。

 蛇足かもしれないが、イタリア(系)の監督のラストカットの締め方の巧みさは筆舌に尽くしがたい。ネオリアリズモ付近のフェリーニ、デ・シーカ辺りの作品は、ラストまでの紆余曲折は流石ネオリアリズモといった感じで散漫でやや退屈でさえあるのだが、そのラストの締めくくりがあって、初めて全てが”人生”として昇華され肯定されるように思う。のちのイタリア系の映画がラストの切れ味が良いのはネオリアリズモ由来なのかもしれない(「ニューシネマ・パラダイス」も、あのラストにかかる比重ったらないわけで)。その華麗なラストまでは、では前説となってしまうのだろうか。否、そもそもこれらは何も説明しないから、前説にすらならない。あるのは、ただ”ある”ということのみ。

 以前「アポロンの地獄」を見て、この悲痛な物語が生まれるぐらいなら、あの時オイディプスは手足を縛られたまま死んだ方がマシなのではという悲痛な感想を抱いたのだが、今作はそれを(悲痛なことに)実行している。そう、イタリア映画の根幹にあるリアリズモ意識が描く物語には、あまりの壮絶で悲痛、痛みが伴うことからそもそもこの世に”在ろう”とすること自体を拒否したくなってしまうのだ。今作ではケイがマイケルの子を堕ろす。ここでの言い合いがお互い譲らないぐらいには対等な葛藤であるように思った。また堕されたのは三人目の子だ。奇しくも、それは三男のマイケル自身と被さる。三人目の子、生きた可能性の先がマイケルと同様だった可能性は否定できない。一方はマイケル含むコルレオーネ三兄弟の幼少時が、そして一方には生まれなかった命がある。この対比の残酷さに頭を悩ます。Viva la vitaが揺らぐ。

 フレドの人間味。今作、フレドの可笑しみは増す。その可笑しさは笑えるも、結果的に嘘を見破られることにもなり、死期を早める。マイケルと言い合うシーンで、不安定な座椅子からの抵抗は可笑しくも虚しい。マイケルのキスシーンが、愛と怒りの力強さと、別れの意味を兼ね備えた素晴らしいシーンであった。魚釣りの話、「マリア様と言うと、釣れるんだ」。一番人間味があり、その鈍臭さ故に一番感情移入してしまった彼が、神の無力と己の無力を同時に知らしめられて死ぬ辺り、もう残酷すぎて救いがない。肯定する余力を残さないような否定がここにはある。
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