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オッペンハイマーのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 原爆開発というシンギュラリティーにおける前後の表現こそ、ノーランの好む時間のテーマが凝縮されていると言える。しかし、今作はそのシンギュラリティー以前にすでに時間は錯綜して複雑怪奇。それはオッペンハイマーが時間の不可逆性を一番知っているからこその呪いとでも言えるか。戻れないから、どの時制にもいられない。それだけが彼の背負う罪だった。


 「ああ全然英語わかんないや」と思いながら鑑賞してしまった。そう思うと今作は裁判や公聴会やら会話劇がかなりを占めるというのもわかる。ノーランに期待するダイナミズムは、他のフィルモグラフィーに比べて弱いということになる。そんな感じに、ほぼ内容を把握できてない人間が書くレビューだと思って話半分に読んでいただけたらと思う。あと少し日本に滞在できたら日本語字幕で鑑賞できたのに。

 しかし、今回そういった特殊な鑑賞をしたのもあってか、普段意識しないことに気がついた。異様に声が小さいのだ。映画のダイナミズムのためと、おそらく画面の会話に耳を傾けさせるために、声はかなり絞られている。そしてかなりずっと音楽が響いていて、絶えない。この緩急が物語運びを、ズタズタな時制でありつつ三時間持たせているように思う。面白みというよりは、観客に耐えさせるためとあえて言わせてもらう(切り返しにじんわりズームってもう悪手な気がする)。観客に譲歩してる感じはメタファーにも表れている。冒頭の雨の水滴が水たまりに落ちるところは、どう見ても原爆のメタファーだ。しかし、別のシーンで地図を見ているとその水滴のシーンがオーバーレイする。なんてわかりやすいメタファーなのか!また、尋問されている中で妻の前で浮気を話さなければならないシーンがあると、なんとオッペンハイマーは文字通り丸裸にされるのだ!しかも駄目押しに浮気相手がそこにまたがる。え、こんなしないとわかんないシーンなのか?バカにすんなよと思った。いや、バカにでもわかる物語にしてるのがタチが悪い。オッペンハイマーという天才の憂鬱を、小市民的な苦悩とリンクさせることで、彼への共感を絶大にしている。しかし何故?

 今作を実際、言語抜きに見ると他の作品に比べてダイナミズムは足りないように思えた。頼られていたのはらしからぬジャンプスケア的なものばかり。トリニティ核実験だけは流石に力が入っていて、ミュートされた映像に後から音が襲いかかる仕様になっている。しかし、予想の範疇を超えないその原爆の様は一体なんだろうか。正直、記録映像の方が怖い。ノーランがやたらノーCGに拘ったのもそうだが、爆風の規模感の弱さ、微妙であった(実験台の家が吹き飛ばされる別の核実験のフッテージの方が迫力ある)。それは細切れカットが距離を映し出さないことに起因していると思われる。「インターステラー」が主人公らの半径何キロメートルの中しか描かれず、世界規模の出来事なのにアメリカだけしか存在しないかのような話となっていた。今作は原爆の最も恐ろしい規模が、音のデカさぐらいでしかわからないのだ。長回しがその場の存在に説得力をもたせるのと反対に、カットはその反対の行為であり、多くを重ねても弁証法にはなり得ない。

 可視化される性的なシーンと、足りない犠牲者の幻想。今作のオッペンハイマーの見る、原爆の幻想は、ものすごい物足りない。違和感や異常なことが起きた感じはうまい、しかし、ショッキングではない。見るからに取ってつけた皮膚がベロベロなびいてる(勿論目玉は溶け出さない)ものや、人かわからない黒い塊を踏んだり、正直、この二つが原爆の惨禍の幻視としてあげられるものだった。生きてた人間が黒い塊に変貌するという恐るべき過程をカットしてしまうことの重さを、彼は知らないのか。あと外でなんかゲロッてたやつ、「ジョーズ」でも見たんか(アメリカの勝利宣言で湧いているのであって、ゲロってた彼はもちろん惨禍を見たわけではなく、無関係なのにオッペンハイマーと共鳴してるように描かれていた)。

 オッペンハイマーが会場を出てゲロッたやつを目撃する、それが「ジョーズ」の逸話とリンクするのは気のせいだろうか。スピルバーグとの親和性、つまり革新的なものは悪ではないという信奉。「ジュラシック・パーク」で悪たれ科学者ネドリーが信奉したのはオッペンハイマーだった。スピルバーグはそれをクレイジーなことだとして描いてたはずだが、彼は映像の革新者として科学者の”生み出すこと”自体を否定はしていない。ノーランも新たな映像的革新をする上でスピルバーグ、ひいては科学者らに共感しているはずだ。そして自らが生み出す映画が世論をガラリと変え、その映画の無い世界線を想像できないような支配力を持つ。科学者の苦悩と創作者の苦悩はこうして結びつき、ノーランは映像の革新者ゆえにオッペンハイマーに同情している。彼がラストで見る核戦争のビジョンは、自らが生み出した映画が世の中を荒らすような、そんな全能感の裏返しに思えるのだ。後悔はしているが、贖罪は為されない。

 ちなみに科学者と創作が結びつくのは、一瞬ピカソの絵が映し出され、映像のキュビズムならぬモンタージュがなされるところからもわかる。モンタージュをキュビズムとしてしまうのも短絡的だが、平面の連なりが立体を語れるという自負も感じる、自分はそうは思わないが。またキュビズムの引用はトリアーの「ハウス・ジャック・ビルト」がうまくいってる気がした。

 史実から遠く離れて。今作は、いわゆるオッペンハイマーの一番有名な映像、サンスクリット語の教典を引用するあの顔の再現がない。それはつまり、史実とは別の顔を描くという宣言であり、今作はオッペンハイマーを文字通り(2回目)丸裸にする試みがある。しかし、科学者を脱がして彼の本当の人生を語った風でいるなんて、ちょっと芸が無さすぎるのではないか。そしたら誰の史実だってセックスを描いて満足げにできる。裏の顔、裏の苦悩を描くのもいいが、表をおざなりにしてそれを果たすべきなのかという疑問も湧く。広島と長崎の惨状を描かないのに、性行に至る妄想は可視化?表も描けないのに、裏側を語るなんて傲慢じゃないか?サンスクリットセックスプレイしてないで、あのオッペンハイマー記録映像を再現してくれ(ここでもまた史実の映像の方が長回し、目線の当て所なさ、声の脆さ含め全てを物語っているように思えてしまうのだが)。

 一つだけ、場内が笑いに包まれた時の怒りと絶望がやばかったのは、爆心地をどこに決めるかの会議で「京都は文化財が多いからやめよう。それに、私のハネムーンの地だ」と言ったシーンだ。これが今に日本人の目に晒されると思うとソワソワするね。ジョークだが、しかし彼らのほんのちょっとした一存が21万人以上の死者の裁量に繋がるグロテスクさは本物なのだ。「シンドラーのリスト」のラストと対照的。一存が命取り。

 ただの少しでも、注釈程度でいいから史実から文献の引用、実際の映像などを取り入れるべきだと思った。昨今じゃ「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」が現実の史実との距離を上手いこと保てていたと思う。「あくまでオッペンハイマーの自伝だから広島長崎はそこまで重要じゃ無い」?原爆に関与した結果が延々彼を苛むなら、この映画自体もまた彼が逃れられないはずの現実(史実)を付与し、苛むべきではないのか。

P.S.
 同じ趣向の「風立ちぬ」がアカデミーで受賞せずで今作がアカデミー総舐めなのは、アメリカの賞だししょうがないけどもうこの両国の埋まらぬ深い溝は底知れないことがわかった。
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